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日報200414

先週、新型コロナ感染症拡大防止、また利用メンバーに対してスタッフの体制を維持することが困難になり、そして同時に今週からの縮小営業を念頭に、一部スタッフをお休みしてもらうことを決めました。

そして昨日、犀の角との打ち合わせでリベルテの角も、5/8まで休止。さて、それ以降はどうなるんだろうという見通しも持てず、事務所の椅子に座れば午前午後と各所に電話して1日が終わるという。先週もそんなんだったから、今日もそんな感じで、少し自分の中で勢いのようなものがなくなっている感覚になっています。家族も避難的に帰省してもらっていて、夜、一人というのも精神健康上なかなか来るものがあります。


こうした状況の中で気持ちが小さくなっているのもあるし、不安に対してどうにかしようと焦っている自分もいて、できることをすること、一人になることで空回りしているような、やるせさが募っていく感じがあります。

ちょっと、やばいなー。以外とそのスピードが早い。「精一杯」そう、今、自分は精一杯やっているのだ。しかも、新型コロナウイルスに対して、こうなってしまった「運命」とでもいうべき何かに怒りを懐きながら。こっちから願い下げだ!と宣言したいけれど、そういう訳にもいかない。宣言したころで逃げられもしなければ、どこかに行ってくれるわけでもない。

先週、今週と休んでいるメンバーと電話で話したりすると、自分が正常になってくる感覚があって、なんていうか、メンバーがいるから自分は自分でいられるんだとやっぱり感じた。新型コロナウイルス対応によって、なんだかメンバーも、そして特に自分の居づらさを感じていて、事務所の仕事に逃げているのかもしれないとすら、振り返ると感じてしまう。そうか、新型コロナウイルスによって居場所を奪われるということは、こういう感覚なのかもしれない。そして、いつの間にか、自分の居場所を失っていく。

今日はスタッフが、お昼のメンバーが食べるコロッケにソースでハートを描いていた。そういうことなのかもしれない。今、大事なのは。そういうことが、まだ無数にアトリエには生まれていて、ただでさえ取りこぼしてしまうのだけれど、今は特にそういうことを記録していく、記憶にとどめていく、積極的にそこにいることを意識していくことが大事なのかもしれない。見えないものに怯える、のは仕方がないけれど、見えるものも見えなければ、何もなかったことになってしまう。目に映ることを信じる。それは単純なようで自分が持って生まれてきた限界の中で、世界を肯定していく手段なのだ。

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