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「就労継続支援C型」と「共同作業所2.0」

就労継続支援C型という考え方があるようです。そもそも就労継続支援というのは、障害者総合支援法に基づく就労支援を行うサービスの名称で、A型とB型がありますがC型というのは実際にはりません。雇用契約を結ぶA型と雇用契約を結ばないB型があり、それぞれの収入や仕事を求めてステップアップも含め恒常的な働く場をつくる事業を行います。

それに対して、ここでいう「C型」事業というのは以下のように、地域の中で「就労」支援というよりも「継続」支援に重きをおいた事業を志向する、ある種事業所のスタイルや考え方になります。

「C型」とは「コミュニティ(Community)」の頭文字のことで、障害福祉サービス事業所が地域のニーズや困りごとに応えることで地域に欠かせない存在となり、障害のある人と地域の人が“誰もが住みよい地域づくり”をともに行なっていくという理念のもと、提案されている事業です。 > (京都精神保健福祉施設協議会より記念講演会のおしらせ | 京都精神保健福祉士協会 http://www.kyo-psw.org/archives/1311)

こうした考え方が出てきたことは、精神疾患や発達障害を意識に的に支援している団体や人からすれば、現行の制度設計や一般就労に求められるハードルと照らし合わせて考えると、想像に難しくありません。ただ、福祉の制度に詳しくない人からすれば、A型?B型?さらに概念としてのC型?と混乱してしまうかもしれません。

筆者であるぼくが運営するリベルテは就労継続支援B型と生活介護を運営しており、立ち上げのときからこの「就労継続支援C型」に近いサービスが地域には必要だろうという予測がありました。確か平成24年、25年当時は「ディアクテビティセンター」をやろうと思っていました。地域活動支援センターも検討しましたが、結果として、今の形態で落ち着いています。実際にはこの場合の「就労継続支援C型」を地で行くスタイルだと思います。

現代社会で仕事をすること働くということは、国の施策や教育、企業が求める生産性というものがベースにしているものが評価の基準になっています。もちろん生産性という言葉それ自体が問題とは思いませんが、その言葉以上に強化されてしまっているように感じます。障害福祉の現場で、それに近ければ就労支援であり遠ければそうでないという考え方は、障害のある人の仕事や地域の中での役割を「やはり支援される側にいるのだ」という見方を自然と持ち植え付けてしまうのではないでしょうか。支援される側にいる人の生産性ということを真に受けてしまえば、ときにそれは暴力的な視線を当事者に向けることにもなります。障害福祉では多くの小規模の施設の成り立ちが、親や兄弟、有志が持ち出しがありながらも立ち上げ運営した「共同作業所」がそうであったようにある種、社会の価値観からの避難所(アジール)として無認可作業所をつくった側面があったと思っています。

こういう隠れ家のような場所のことを、「アジール」という。(中略) アジールとはシンプルに言ってしまうと「避難所」のことだ。逃げ込む場所のことだ。
(中略)その語源であるギリシャ語の「asylos」が「不可侵の、接触不可能な、神々の保護のもとにあって 安全な、十分に安全な」という意味であったように、アジールに逃げ込めば、罪人は庇護され、安全 を確保することができるのだ。
(中略)アジールは俗世とは違う力が働いている場所なので、俗世の罪を一時棚上げしてもらえる。 > 『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(東畑開人,医学書院,2019年2月)p.286-287


「就労継続支援C型」だけでなく、本来施設が変えるべき社会の価値観としての「仕事」や「働き方」、いやそれだけでなく「地域の生き方」に対して、反旗を翻す力を生み出す・温存する・仲間を募る場として共同作業所があったと感じています。それ以上に正しすぎる社会通念の暴風から身を隠す場所であった施設の中にも生産性の光(あかり)が照らされてきているようにも感じます。

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リベルテは、ここまで書いてきてやっと宣言するのですが、「共同作業所2.0」という考え方を(ぼくは)しています。「就労継続支援C型」のような現代新しい支援像を地域との関係の中で構築していくイメージには近いです。ですが少し違うのは、働く支援者もおなじ「共同」しているメンバーとして、避難所であるアジール内の関係性の中で個別に立ち上がる「営み」に地域の人を引き込み、「仕事」や「働く」新しい意味へと拡げていく場が「共同作業所」の新しい形だと考えているからです。

映画『まひるのほし』で紹介された西尾繁さんは、作業所のボランティアの女性に宛てて、膨大な量の手紙を書き続けた。「8時54分に電話を下さい」というその手紙に応えて、その女性は電話を入れ続けた。そして1年後彼のその手紙は、ギャラリーに一堂に展示された。(中略)また、映画『花子』(26)にもなった今村花子さんは、毎日食べ物を畳の上に並べていたが、それを彼女の母が、「花子の表現だ」と思い写真に撮った。これは「残飯アート」(27)として展覧会で紹介され、花子さんの「並べる」行為への執着が、観るものに「表現する」とは何かを考えさせる。西尾さんの場合は彼が通う作業所の所長がギャラリー展示を促したのであった。今村さんの場合も、彼女の母の視線がアートへの起点となっている。
 展示された西尾さんの手紙は、西尾さんだけの「作品」だろうか。今村さんの行為と、それを撮影した母とでは、どちらが作者といえるだろうか。西尾さんと今村さんのそれぞれの強烈な表現への衝動が一連のプロセスの発端ではあるが、その衝動が他者の行為を経由することによって意味が立ち現れてきたのであり、ここに見られるのは、やはり共同性である。アートが「アート」として現れる過程には、もともとこのような関係性が内包されているのではないだろうか。 > 岸中聡子「「障害者アート」と「共同性」」(現代文明学研究) http://www.lifestudies.org/kinokopress/civil/0601.htm

共同作業所が地域にとっての価値観のフレームをずらし、死角に「新しい」または「次の」価値観を生み出すようなハブのような機能になればいいと思っています。だけど、そのためには先に「評価」や「質」のようなものを置いてしまえば、常に既存の価値観(例えば仕事で言えば「生産性」)に絡め取られ、そこに立ち現れているはずのオルタナティブな価値には、だれも気づけないでしょう。だから死角でありアジールであり、しかし断絶し内側に閉じていくような場ではなく、内側から地域にひっくり返っているような共同性が生まれる場を目指しています。

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それはぼくが思っている早く、リベルテのメンバーやスタッフや地域の人たちによって実現しつつあり、ぼくもその当事者の一人として、分析できないぐらいそこでの日々の登場人物「私」として生きています。


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