おかあさんの木
既に公開されてしばらく経つので何を今更という話だが、知人の好意で『おかあさんの木』の試写会へ行く機会があった。東映の戦後70周年企画である。有名な児童文学が原作で、初めて映画化の話を聞いたときには、恥ずかしながら「また古い話を引っ張り出してきたな」という印象しか持てなかった。
物語の舞台はたしか長野県上田市だったと記憶している。戦争映画だが、戦場が頻繁に登場するわけでもなく、空襲で焼け出される描写もほぼない。直接戦場と化すことがない片田舎の家で、息子の出征をただ見送り続けるだけの母親を淡々と描くのだ。
母親は戦争というものをただ漠然ととらえるだけで、その正体がわからないまま息子を家から送り出す。一度だけ、機関銃の掃射を受けるシーンが登場するが、それまで戦争で命の危険にさらされることがこの母親にはなかった、というのがこの映画の大きなポイントなのだと思う。
戦後70周年企画と銘打つと、たいていスケールの大きな「戦争もの」の映画をイメージする。今回、東映はあえてそうしなかった。そこに戦後70年に向けて彼らが発信する大きなメッセージがある。大きな犠牲を強いられた戦争の中で、ただ息子を見送り続けた「田舎のお母さん」。戦争へ世の中が傾く過程を通じて、庶民の生活、そこに生きるひとりひとりの心がどういう蝕まれ方をするのかが冷たく描かれている。
私の祖母は戦時中、兵庫県の山奥の田舎の村で過ごした。避難先や疎開先ではなく、そこで生まれ育った。家は農業を営み、幸運にも空襲に襲われることもなく食べ物に困ることもなく暮らした。とはいえ、「戦争」を何も感じずに過ごしたわけではない。ひとつ山を越えた町は破壊され、彼女が住む村にも食べ物を求めて多くの人が避難したらしい。ただ、彼女自身が直接命の危険にさらされることはなかったようだった。
一方、祖父は終戦を満州で迎えた。終戦後、すぐには日本に帰れなかったと聞いている。死期をむかえた病床で滔々と自らの戦争体験を悔やんだ姿は、平和な世界で育った者が軽々しく声をかけられるものではなかった。
身近な二人の言葉から、一口に「戦争」といってもそれぞれ違った世界を見ていたのだと改めて気づかされた。人それぞれ見ている世界が違うということは、人によってそれを肯定しうる可能性もある。そういう人間にだまされてしまうと、いつの間にやら国全体が道を踏み外してしまう。
この映画を観て、伊丹万作の『戦争責任者の問題』がまず頭に浮かんだ。今回は、その一節を引用して終わりにしたい。
「少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。」(『戦争責任者の問題』伊丹万作・著、1946年「映画春秋」創刊号)