空を見てただ青い、感情なくそう言える視点が欲しい。

今更思ったのだが、これはエッセイでなく日記であるな。たから今後は日記タグを付けていこう。あたしは作家の書く日記が殊の外好物で、だからウルフもメイ・サートンも日記から入った。メイに至っては、日記はすべて網羅しているが、彼女が命を削って書いた詩作をあまりまじめに読んでいない。でもいいのだ。わたしには彼女の日記が何より響くのだから。

メイもまた、心にヤマヒを抱えていた。彼女の場合、どうも私と近い気がする。物凄いパワーで何かを成し遂げたと思うと、あっという間に癇癪を起こしたり気鬱に落ち込む。ただ、彼女にあたしの「軽さ」はない。あ、これ、あくまで人間としての比較なので。あたしは作家ではないのだから。

思い返すと私が心を惹かれていた作家はおしなべてなんらかの心のヤマヒを持っていた。いや、須賀敦子の健康さはまた別だけど、9割がた。私が惹かれたのは彼女らがヤマヒを抱えていたからなのか。

メイの著作の中でことに好きな下りは、海辺の家、独り居の日記、そして夢見つつ深く植えよ、だ。夢見つつ、は日記ではなく随筆だが、メイの日記にはどれを取っても随筆と呼べる客観的な視点と俯瞰したものの見方がある。だからどれでもいい。手にとって読めば、私はアメリカの田舎の厳しい自然をみつめる視座に投げ込まれるわけだ。

あたしはというと、都心への満員電車に揺られる日々からまず抜け出せない。母が足がいよいよ悪くなり、介護を受けることになった。それを手伝ってもらうのに母はあたしではなく兄を選ぶ。兄は自営であたしは勤め人だからだ。

兄とあたしの関係についてはまた別の機会に。

メイの、ウルフの、あるいは須賀敦子の客観性がほしい。そうして冷徹に自分の人生を見つめ直したい。けれど本当に?あたしはその視点に耐えられるのだろうか。



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