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雨の匂い


僕にとっての大切な人について述べるのはそう簡単な話ではない。まさに今、家族よりも先に、昔好きだった人の顔を思い浮かべてしまうことに僕は少し恥じらいを感じている。

妻とこどもを愛している。これからもずっと変わらずとても大切な存在であることには変わりがない。

それでも僕は隠さずに伝えたい。どうしても忘れたくない大切な人について、僕は話すことにする。

あれから10年以上が経つけれど、ふとした瞬間に思い出すものだ。

思い出そうとしても思い出せない香りなのに、街中でふわっと香る、君を思い出すような香り。

その香りが香水や柔軟剤であれば、僕はきっともっと前に、その香りを特定して同じものを買っていたと思う。

そうではなく、空気の匂い。夏の匂い、秋の匂い、冬の匂い。表現ができないけれど、一緒に歩いたコンクリートの道の片隅にあった何かの木の匂いとか、その時に住んでいた自分の家の匂いとか。それを感じたとき、どうしようもない支配感に苛まれる。

日常に溢れている思い出爆弾。

ニンジンを切っている時、湯船に使っているとき、外を歩いているとき、そんな日常でさえ、一緒に過ごした時間が瞬時に頭の中で再生され消えていく。その一瞬だけ現れて、決してその先は思い出すことができない。


寝るときはもっと怖い。目を閉じると自発的に色々と考えてしまうのだから。

出会った瞬間のことを思い出してみても、ぼんやりとしか思い出せない。思い出さなくていいのに、目を瞑って頭の中で考えることを止めることができない自分がいる。

この10年間の間で、君の存在は僕の中で少しも変わっていないことに気がついてしまった。


10年前、僕は君と出会った。
たまたまバンドの先輩に誘われた風俗に君は居た。


どう考えても、どうして君みたいな子が働いているんだろう?という考えしか導き出せなかった。
今答えるとするならば、君は愛情を知らなかったからなのかなと考えては虚しくなる。


10年前、僕は東京でバンド活動をしていた。今も変わらず、ドラムを叩いている。先輩が好きなお店があるという誘いから、まあ自分で出すわけでもないしせっかくのお誘いだからと話に乗ることにした。


指名制だったけど正直よくわからないし、1番スタイルが良い子でと伝えた。よくわからない小さな部屋でその子を待った。間も無くすると君が現れた。綺麗だった。大人なのかこどもなのかわからなかったが、なんとも言えない空気に包まれて、はっきりと思い出せないけれど、初めて会ったように感じなかった。


君は、前にお会いしましたよね?と思いだしたかのように僕に言った。もちろん会ったことは無いのだけれど、何故だか僕もそんな感じがしてしまった。後から考えたら、客との距離を縮めるための切り口だったのかもしれないね。でも今の僕にはわかる、君はただなんとなくそう聞いただけ。どこかであったように感じたからそれをそのまま伝えただけだったと。僕があの時のことを聞いたときも、君はそう答えて微笑んだ。

限られた時間ではあるけれど、僕はそのわずかな君の時間を買ったのかと考えるとなんだか居心地が悪かった。


話し始めた時は気さくな子だと思っていたけれど、そうでは無いと感じる部分も多く、なぜここにいるのだろうか、その疑問だけがひたすら大きく大きく膨らんでいった。時間が過ぎていく。君もどう進めて良いのかわからない顔をしていたように思う。僕は、君の心が崩れていくのを見たくないと思っていた。だから話そうと。

たわいもない話だったと思う。全然思い出せないけれど、お互いの話をしていたと思う。君は僕に、なんで今日ここにきたのかと聞いたし、僕は君に、なんで君はこの仕事をしているのかを聞いたと思う。そして君から年齢を聞くことができた。

少女を汚す原因と、汚そうとしている自分を考えたら、僕はこの先に進むことも、進めさせることもしたくなかった。

しかし時間は止まることも巻き戻ることもなく過ぎていく。

時間を見て君は、「どうします?もうすぐ時間が来ちゃいますけど」と微笑みを見せながら僕に話しかけた。どの答えがきても、君自身もそして僕をも傷つけないような雰囲気だった。

その時、僕には君が壊れていくのを止めることは出来ないと、無力さを感じた。

このまま終わるのもいいかもしれないと考えたけれど、もう会うことは無いのだからと思い、始めることにした。限られた時間、残された時間。

正直、10分だったか5分だったかも覚えていない。ただ、時間など関係なく、僕には答えが出ていた。時間が足りない事を言い訳に、途中で終えた。

別れ際、きっともう会うことはないと思いつつ、今度ご飯でもと連絡先を聞いた。君をもっと知りたくてその機会が来ることを望んだ。君も断らずにいたから、嬉しい気持ちもあったけれど、いったい何人の人と知り合い、同じことを繰り返してきたのだろうか、そしてこの先も続けるのであろうか、ふと頭に浮かんだけれど、僕にはどうすることもできないし、関わるべきでないことだと、すぐにその思いをかき消した。

外に出ると夕方になるというのに溶けそうなほど暑かった。先輩と合流して食事をした。どうだったかと聞かれたけれど、想像していたものとは少し違ったとだけ伝えた。

僕のメールに君は返信をくれて、自分でもびっくりするくらい早く再会の時が訪れた。

先輩と解散した後会うことになった。君はパスタを食べて、僕はコーヒーを飲む。

今日まさにさっき出会ったばかりで、さっきまで狭い部屋に一緒にいて僕の裸を見ていた女の子が、今は僕の前でおいしいと言いながらパスタを食べている。どっちも現実なのに、今目の前に広がっている君だけを見ていたかったと、少し複雑な気持ちになった。


君の話をまた少しだけ聞くことができた。

君は大学生。大きく括ると、僕と同じ地域に住んでいて、駅も知っていると少し嬉しそうに話してくれた。ひとりっ子とも言っていた。時々君から孤独を感じる時があったのは、そのせいなのかもしれないね。

ご飯の後はいったいどうするのだろうか。
そう少し考えながらも、手を差し出してみた。君は悩むこともなく、そのまま微笑んで手を握ってくれた。


断ってもいいのに。仕事はもう終わっているし、演じなくてもいいのに、君は手を握った。僕を疑うことなく、安心しているからなのか、誰にでも同じことを躊躇なくできる子なのか。

再び、僕にはどうすることもできないということを思いだしつつ、君に聞いてみることにした。
「さっきの続きをしない?」その言葉に至るまでに、沢山の前置きを付け加えていたと思う実際は。君は少し笑いながら、いいよと答えてくれた。近くのドンキホーテで何か買ってみようと、お店に入ってみた。今でも覚えている。僕たちが買ったのは、手錠やコスプレではなく、ガリガリ君の入浴剤だった。

渋谷のラブホ通り。こういうところ初めて来るーと物珍しげに眺めながら道を歩いた。初めて来るの?と言葉を返した気もするが、君がなんて答えたか全く思い出せない。心の中で初めてなはずがないと思っていたからだと思うし、正直どうでもよかった。

もし本当に初めてであれば、初めてラブホに行くという体験を君に届けることになるし、初めてでなかったとしても、僕は君と寝る。結局はそれが待っているのだから、答えがどうであれ僕にはなんの変化ももたらさないとわかっていたからだ。
どこかのホテルに入り、お風呂に入ることになったけれど、ガリガリ君の入浴剤が溶け切り、湯船が黄色くなった事が面白くて、君にお風呂が残念なことになっちゃったと告げた。君も笑いながら入ろうと言ってくれた。

おしっこみたいになったねという僕の言葉にも、でもパイナップルのいい香りだねと返してくれた。このお風呂がパイナップルの香りになっていることすら僕は気づけていなかった。君とお風呂に一緒に入るという事が、ただただ嬉しかった。


君とのセックスはどうだったか、正直覚えていない。

相性が良かったのか、気持ち良かったのか、全く思い出せない。快楽は上から塗り替えられてしまう物なのだと僕は痛いほどわかった。君のことを忘れることはできないのに、大切だった記憶が時が過ぎると見えなくなってしまうこともあるということを知った。ただその瞬間に君をすごく愛おしい気持ちになったことだけは頭に残っている。その気持ちだけ思い出しては、胸がキュッと縮む。

初めての夜を過ごしてから、君とはたまに会う仲になった。僕の家にも来ることもあった。
僕の家に初めてくる日、君は父親に怒られて出てきたと言ったね。少し元気がなかった。僕の家までは、お母さんが送ってくれたと言っていた。外出を反対する父親と、望み通りになるよう、誰にも触れられぬ安全な方法で送り届ける母親。
君はお母さんのことをとても好きでいるのだろうとその時理解した。お母さんはいつも味方であるから、気持ちが救われているのだろうと。でもあの時君は、お父さんの気持ちもきっと理解していたんだとおもう。そして、きっと反対を押し切って夜出かけることに対して罪悪感を感じていて気分が悪かったのだと僕にはわかった。ただ、君はそれが父親の愛だということ、君を大切に思っているからこそ、お父さんは夜遅くに外出することをやめて欲しかったんだということを、しっかりとは理解が出来ていなかったんじゃないかな。

僕には、お父さんの気持ちがわかった。たしかに年頃の一人娘が、君のように綺麗な若い女の子が、夜に出歩いたら心配になる気持ちもよくわかった。その気持ちを分かりながら、僕は君を、彼氏でもないのに自分の家に招いた。心のどこかで申し訳ない気持ちを押さえつけながら、歩く。


「僕のせいで、喧嘩させてごめんね。」

すこし重い空気の中、置くように出た言葉。
君は今までの重い雰囲気をかき消すように、

「そんなことない、会いたかったかったから。気にしないで。」と言った。


僕の元へ呼んだことへの後悔をサラサラと消してくれるような君。僕も会いたかった。

お父さんもお母さんも、違う方法ではあるけど、同じくらい君のことを愛していることを、君がしっかりと受け止められるにはどれくらい時間が必要なのだろうか。たとえ時間がかかったとしても、君はその真実にたどり着くのだろうと僕は感じていた。

僕が作った焼きそばを美味しいと言いながら食べる君。君は一度僕に話してくれた。

もう長い間、お母さんの作るご飯を食べていないことや、毎日出来合えやインスタントの物が多いということ。だから、人が作った料理を食べるのがすごい好きなのだと。お店で食べるのも、買ったものも全て人が作るものだけれど、こうやって自分のために作ってくれた物を食べるのが好きだと。どんな味付けでも美味しいから、喜んで食べるのだと。でも、ニンジンはあまり好きじゃないから、今度から細く切ってねって、残してごめんと笑いながら言った。またひとつ君のことを知る事ができた。

今日も僕は君の隣で寝ている。満たされた気持ちでタバコを加えて先輩からのメールを見ていた。

突然、君が僕の腕を撫でた。「これ、かわいいね。」僕の腕に入ったタトゥーに触れながら君は言った。くすぐったくて、ビクッとしたけれど、悪い気はしなかった。僕もこのタトゥーが気に入っているから、これについて触れてくれること凄く嬉しく思った。

音楽と自由を表現したくてこれを彫った事を伝えると、君はまた腕を優しく撫でてくれた。

タバコを吸っている間に、いつの間にか僕は寝てしまったようで畳に灰が落ちてた。君はそれに気がついて、僕を起こした。「眠いし、危ないからタバコ消そう?」そう言ってからすぐに、僕らは眠りについた。


朝が来て目が覚めた僕は、その日の予定に遅れていることに気がついた。やばい寝坊!と起き上がり、焦りながらバタバタと準備をした。君は寝ぼけながら、大丈夫か聞いた。ごめんねバタバタして、先に行くけどゆっくり準備をしていいからと声をかけて、僕は外へと向かった。僕も遅れているけど、君もきっと大学に遅れていたんじゃないかと後になって思った。

何回か一緒に夜を過ごし、僕は自分の出るライブに君を誘った。人見知りの君は、知らない人に会うの緊張すると少し照れながらも、喜んでくれた事を覚えている。ライブが終わって、メンバーと一緒に飲むことになり、それぞれ連れも参加する内輪の飲み会となったが、そこに君も来てくれた。

おそらくはじめて接する人達だと思うから、君はどう過ごすのだろうかと僕まで不安になったが、みんなが君に興味を示し色々話しかけてくれたおかげで、君の緊張もいつの間にか解けていた気がする。よく笑う女の子、そんな印象となった。

後日、先輩に話を聞いた時に、リアクションが若くて新鮮だった、よく笑ういい子だねと言っていたよ。その君が、自分が誘った風俗のお店にいた女の子だったと打ち明けた時はちょっと驚いていたけれど。


お酒も入り気持ち良くなったところで、僕らは帰ることにした。手を繋いで家まで歩く帰り道、このまま僕を支え続けてくれるのかな?と考えながら歩く家までの道は、あまりに短かった。

はじめて出会った時から1年が経とうとしていた。
僕は家族の関係で東京から地元に帰る事となった。この頃までになると、会いたいと思った時に会うことができないことや、距離ができる事に不安を感じていた。 でもまだ僕は君の彼氏ではなかった。君も同じように感じていたかもしれないけれど、君の気持ちが見えなかった。

好きであるけれど、友達でいる方がいいのかもしれないし、何より君も同じ気持ちであるかわからなかった。

それを確かめて、僕の勘違いで終わるのであれば、このまま距離ができて少し過ごして見るのもいいのかもしれないなと考えていた。ゆっくりと抱きしめて、僕らは離れた。

ドラム叩いてる姿も好きだけど、普段の姿が1番好き。僕自身を包み込んでくれる君の優しい言葉は、いつも僕を翻弄する。

当時組んでたバンドで大きな仕事が決まった時、嬉しくて電話で報告をした。君も一緒に喜んでくれて、話を聞いてくれた。この仕事に対して僕はもちろん緊張もしたし、その他にも悩むこともあった。君が音楽を深く知らないこともわかっているし、もしかしたらどんな話もピンとこない内容が多かったかもしれないけれど、とにかく君に話をきいてもらうことで、僕は凄く安心した。

君は必ず、お家は大丈夫?と聞いてくれた。その少しの気遣いが、僕を救ってくれる。この日を境に、僕にとって君はとても大切な人となった。

あの日も電話で話をしていた。そう、君に気持ちを伝えようと決めた日だよ。ライブも無事に終わり、君にありがとうと伝えたかった。相変わらず会って話はできない状況だったけれども、不思議と心の距離は前よりも縮まっていた。僕の中では。何をきっかけに話したか、どういう風に伝えたかった、正直覚えていない。その後の言葉でかき消されてしまったから。

付き合いませんか?と伝えたとき、君は「遅いよ、、」と言った。ずっと僕のことを好きだった。僕たちはずっと前から同じ気持ちだったんだ。

その後に君は、他に好きな人ができた事を正直に話してくれた。そして、僕のことをずっと好きだった。でも僕の気持ちが分からなくて、確かめるのが怖くて他の人を探したと言った。僕よりも好きと思う人が居るから、僕の気持ちに応えることはできない。それでも、僕のことが好きだったし、今でももちろん僕のことが好きだと。


恋は難しいものだと思った。お互いに好きだと思っていたけれど、僕は随分と遠回りをして君にたどり着いてしまったみたいだった。そして君を見失ってしまった。

少し日を置いてから、僕はまた君に話をした。
「僕のことを1番好きでなくてもいいから、付き合わない?」
自分でも意味のわからないことを言っていることはわかっている。それでも、僕は君を離したくなかった。そして君が僕という存在を遠ざけたことにも、少し憤りを感じていたのも事実だった。振られたという事実はやはりショックだったし、ちっぽけな男のプライドを握り潰すことができず、もう一度君に問いかけた。君は笑った。それで良いの?辛くならないのであれば付き合おう。そう君は返してくれた。

僕はもちろんわかっていた。きっとお互いが辛い道を歩く事となることを気がついてはいたが、ここで止めることはできなかった。君が好きだから。気持ちがまた重なる時が必ずくる気がしたから、僕は君の答えを逃さないようにしっかりと受け止めた。

僕たちは付き合っている。それでも前の関係とは変わっていない。手を繋いで歩いて、抱きしめて、キスをして、隣で一緒に寝る。ずっと前から僕たちは、今と同じことをしていた。僕は君が好きで、君も僕が好き。ただひとつだけ違うこと。一緒にいる今この瞬間も、君の心の中には僕だけではなく、他の誰かもいるということ。

僕に会いに愛知まで来てくれたこともあったし、僕も仕事で東京に行くこともあったので、お台場までドライブしたこともあった。あの電話で話したことは無かったかのように、僕らはいつもどおり過ごした。何も特別なことはない、それで良い。君が僕を好きと思ってくれるだけで、それでいい。

少しずつ少しずつ過ぎていく時間。
距離は縮まることはなく、相変わらず僕は君の背中ばかりを見ている気持ちだった。僕はいつまで君を待てば良いんだろうか。君の1番になる日は来るのだろうか。

ある日僕は、その日を待つことをやめた。

僕らの間にある愛情は、どうしても僕には偽りにしかみえなかった。

君にはきっと、僕よりも愛する存在がいるんだと思う。それなのに僕と居ることに苛立ち、君の優しさも僕の心には届かなくなり、次第に枯れていった。「別れたいと思う。」僕はメールでそう伝えた。

少し時間を置いて「そっか。。。あなたがそうしたいのであればそうしよう」と君から返事が来た。


そうだよ。君には僕の気持ちに反対することはできない。他に誰かが好きで居る君は、僕の決断に意見する権利はないと僕は思っていた。でも、そう思っていたのは、僕だけではなく君もだったと思う。「今までありがとう。ごめんね。」と君は続けた。なにに対しての「ごめんね」なのかは、痛いほど伝わってきた。僕もわかっているよ、君が僕を大切に思っていてくれたこと。そして、君が「別れたくない」と言わないことも、僕はわかっていた。


あの時、君の手を掴んでしまってごめんね。君の気持ちを知っていたのに、遠くに行ってしまわないように、僕は君を掴んでいただけだった。

君が行きたい方へ、行かないようにしていたのは僕だった。あの時、君を自由にしてあげるべきだった。

そう思うようになったのは、別れの日から何年も経った後だった。今でも、君に「ごめん」と言わせた自分自身を許せないでいる。

別れからまた少し時間が経って、僕は東京に行く予定ができた。君とは相変わらず連絡はとっていた。たまに送る元気?という言葉とちょっとした最近の出来事。君もそれに答えてくれるけれど、すぐにまた、なにもない真っ白な毎日が続く。ある日、君に東京に行くことを伝えた。君は喜んでくれた。少しでいいから会いませんか?という僕からの誘いに、君は絵文字と一緒にOKを送ってくれた。

久しぶりに聞く君の声。こんなにも声が高かったかな?そう思いながら、一言一言大切に頭に残す。久しぶりに会った君は、前よりもずいぶんとお姉さんになっていた気がした。出会った頃よりも落ち着いた雰囲気で、また君の新しい一面を知ることができた。

コーヒー飲みながら、お互いのことを話した。初めて会った時の様に、お互いの話をした。友達という関係でしかいることができない僕たちだけれども、それでもこうやって一緒に過ごせることが、僕にとってとても心地よい時間だった。

帰りのバスの時間までまだ少し時間があったのと、少し眠たくなったので、僕の希望でネットカフェに行くことになった。個室という空間で、君と2人で少しだけ過ごしたかった。

小さい空間に2人で過ごす2時間、君は短いと感じたかな。長いと感じたかな。僕はよく覚えていない。ただ、僕たちの間はもう何も起こることはない、そう改めて確認をする時間だったと思う。

もちろん、何かをしたいからネットカフェを選んだわけではない。むしろなにも起こり得ない場所だとわかっていたから僕は選んだ。最初はパソコンを見ながら少し話していたが、そのうち僕は眠くて仕方がなくなり、寝ることにした。

時間になったら僕は起きるから、その間君は好きな様に過ごしててと伝えて眠りにつくことにした。眠ることはできない、わかっていたけれど、目を瞑って少し過ごしたいと思った。君は何回か部屋を出て行き、すぐに戻って僕の横に座る。居る事はわかるのだけれど、決して感じる事はない君の体温。僕と君の間にできた少しの距離が、寂しくさせた。しばらくして君も寝っ転がった。身体が触れることもなく、君と僕は、今またこうして隣同士で寝ている。

僕は君に背を向けて眠る。君がどこを向いているか、僕にはみえない。上を見ているのか、僕に背を向けているのか。今の僕らの心の距離感をよく表している僕と君の間にある距離。これを縮める事はできないとわかっている。それでもいいから、無限にこの時が続いたらいいのにと、心の中で残された時間のカウントしながら思っていた。もうすぐ終わってしまう。残りの数分間だけ、僕は君の温もりを背中に感じた気がする。

君は僕を抱きしめることも、手を握ることもなかった。それでも君の深い呼吸を、背中に感じた。僕はその温もりを感じたまま、目を閉じていた。きっとこれが、僕たちが出来る精一杯の事だった。


それからずいぶんと時が経ち、僕も地元に落ち着き、相変わらずドラムの仕事をしている。沢山の出会いを経験した。


気がついたら僕はもうすぐ30代後半になる。好きなことを選びここまで生きてきたので、今までの人生に一切の悔いはない。君のことも、小さな箱に入れて蓋をして、頭の片隅に片付けている。振り返ることもなく、心を痛めることも、心がキュッとすることも、今は無くなった。

ある日、本当に何の前触れもなく、君からメールが届いた。元気?という内容のメール。本当に久しぶりのメールだった。もちろん僕は、返信をした。こうやって、僕をたまに思い出してくれることが嬉しかった。その日から、また少し、日にちは空くけれどお互い連絡をしていた。

電話をすることもあった。君の声を聞くと、頭の中で一緒に過ごした時間が再生されて、その映像が消えてしまわない様に、僕は目を瞑って静かに話しを続ける。


何か困っている時、助けが欲しい時、元気が欲しい時、君の声を聞くと、そう言った気持ちが全てが溶けて、次第に外へ流れ出す。凍った心が、少しずつじんわりと暖かさを思い出す、そんな感覚に近い。ものすごく、落ち着くんだ。

少し話しませんか?そう送ると、君はもちろん!電車を降りたら教えるね!と返してくれる。普段はそうやって、電話の前に君の予定を聞く。君の気持ちを確認してから、僕は君と話したい。君が僕と話しをしたいと思う時に、一緒に話をしたい。何回か、話せる状況かを確認する前に君に電話をしたこともあった。なんとなく、いきなり電話をしたとしても出てくれたら嬉しい気持ちになるから、そうやって勝手に電話をした事もある。

声が聞きたかったけど、今夜は寝るね。また、連絡するね?そう君に送って、朝を迎えることもあった。声を聞きたかった。僕にとっては大切な君の声を、聞くだけでいい。だけど、声が聞きたいって言うのは、少し勇気が要る。それでも、僕は躊躇うことなく君にその言葉を送る。

気がついたら、毎日僕は君に連絡をしていた。君とこうやって繋がるたびに、僕は頭の中から君専用の箱を取り出しては、思い出ひとつひとつに触れる。引越しの時に、ダンボールから一枚一枚お皿を取り出し、丁寧に包装を解き、新しい棚へ移すように。昔の記憶を全て取り出す前に、僕は君と新しい記憶を作りたいと思った。

君が今、どんなふうに過ごしているのか、聞いたりもした。僕が覚えているのは、僕らが最後に電話をした時、君は悲しげな声をしていたということ。君の声を聞いて、君の話を聞いて、僕は全てを悟ったからだ。

彼氏の話をする時、少し悲しげな声になった。別れてから少し時間が経っているのと、君が彼氏から振られたということを君は話してくれた。その話を聞く中で、君は別れた彼氏をまだ思い続けているのだと僕は知った。

僕はそれ以上、君に触れる事はできない気がした。僕が君の方を向いた時、君は違う方を向いていた。昔と同じだ。

もし僕が、君のそばにいたとしたら、君のことを抱きしめていたのかもしれない。そうしたら、また違う未来が待っていたかもしれない。

でも僕は、君を抱きしめたりはしない。違う人を想う君を、引き寄せたりはしないと、あの日僕は決めた。君を解放したあの日に、僕は君を掴むことをしないと決めたんだ。君のことが大切だから、僕はまたひとつずつ小さな箱に思い出を詰めた。


あの日から、また数年が経った。

僕は地元で出会った女性と結婚をして、こどもも授かった。温かいものに包まれて眠るようなそんな毎日を家族で過ごしている。

僕にとって、家族はなによりも大切な存在となっていた。新しい思い出で今までの記憶を塗り替えていく。その感覚が不快に感じないということは、僕が選んだ未来は僕が望んだ通りのものとなったということを実感できるようで、とても心が満たされた。


仕事の関係でたまたま街に出た。その時の事を時々思い出しては、僕は立ち止まってしまう。どうしてそんなことになったのか、僕は思い出すたびにハッとした目を瞑りたくなる。たまたま歩いていた街で、君をみた。君が居るはずがないのに、そこには君がいた。

お互いの時間が止まっていた。
僕も信じられなかった。なぜ愛知に?君は東京にいるはずなのに、なぜ今僕の目の前に居るのだろうとあまりの偶然に驚いて声が出ない。

同じく君も、驚いていた。君が僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。忘れていた君の声だった。

僕らは少しの間、話した。お互いの話をした。僕は君に、なんでここにいるのかと聞いたし、君は僕に、元気に過ごしているのかを聞いた。愛知県は君にとってもゆかりある地だという事を僕はすっかり忘れていて、あまりの偶然に驚いていたが、運命というのはこうやって作用するんだなと思った。


君は、僕が結婚をしている事を知っていた。たまに僕を思い出してSNSで探したことがあると。君から、結婚おめでとうという言葉を受け取る機会があるなんて、想像したこともなかった。それでも、素直に嬉しい気持ちでいっぱいになった。落として粉々になってしまったお皿を、丁寧に丁寧に、ホウキで片付ける。あの時、僕が落として割ってしまったお皿を、やっと片付けることができた。そんな気分だった。

少しだけ、ハグしてもいい?
別れ際に君は 僕にお願いをした。

君からこういう風にお願いされるのは、いつぶりだろうか。考えたら、いつも僕が君の意見を聞いていたのかもしれない。君からお願いされるのは、初めてだった。僕は君からのお願いを無視することはできなかった。

君からのハグは僕も望むことだった。温かい君の体温。君を抱きしめるのは、本当に久しぶりだった。僕らが最後にデートした日。まだ付き合っている時だった。でもあの頃は、こんなにも温かいものではなかった気がする。

ずいぶんと長いハグだった。決して強く抱きしめるわけでもなく、柔らかい羽を両手ですくうような、それくらい柔らかいハグ。そして、君は僕から離れた。


最後にお祈りをしたの。お祈りのハグ。そう言って君は微笑んだ。

何を祈ったの?僕はどうしても聞いておきたかった。

君が祈ったのは、僕の幸せ。
そして僕の大切な人の幸せだった。
僕と僕が大切と想う存在の幸せ。
ただそれを祈り、そして君は優しく僕を抱きしめた。

僕は君には敵わない。

僕も最後に、君にハグをした。

僕は、大切な君の幸せを祈った。
僕が君を離した時、君は泣いていた。
僕には、その理由が痛いほどわかった。
気がつかなければ、どんなに良かっただろうか。
本当に ありがとう。僕は最後に君に言った。
君は笑顔を作って、いつまでも幸せに過ごして。大切な人が幸せに過ごすことが、私の幸せに繋がるから。そう返した。

僕はどこまで、君に救われるのだろう。
君が泣いている理由も、君が笑顔を作ってくれた理由も、ハグを選んだ理由も、僕には全部わかった。君のそのひとつひとつの選択が、僕を救ってくれる。

君が僕の方を向いた時、僕は違う方を向いていた。初めてて出会った時、僕たちはお互いの方向を見合っていたということには、気がつきたくがなかった。あの時を逃した僕たちは、それからずっと、違う方向を見続けていた。

君がもし、あの時、キスを選んでいたとしたら、僕は崩れていたかもしれない。君のもとへいかずには居られない、そんな気になっていたかもしれない。それを君はわかっていた。だから君は僕に祈りのハグをくれた。僕が1番欲しいと思った君の温もりと、君が欲しいと思った僕の温もり。お互いの温もりを確かめて、それを頭に記憶する。
もう二度と感じることのないお互いの体温。

きっとこれが、僕たちが出来る精一杯の事だった。

僕は今も、この大切な思い出を忘れないように、こうやって記録する。

君が僕とそして僕が大切に想う存在の幸せを願うというのであれば、君自身の幸せを願うということだと、僕は君に伝えられずに終わるのだろう。

なんとなく、ただなんとなく、僕は君にまた会える日を待っている。何かを求めているわけでもなく、何かを犠牲にしたいわけでもない。

ただ、もう一度君に会えたら、そう思いながら僕は待っている。

どこに行けばいいか、僕も思い当たらない。それでも、僕はなんとなく、どこかで君を待っているんだ。

そう酔いしれながら今日も雨の匂いを嗅ぎ、感傷的な気分に肩まで浸りたくなる6月の休日。

梅雨が明けるまで、もう少しこのままで居たいな。

lazy S.


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