見出し画像

画壇の明星・セザンヌとピカソそしてノグチ

古本屋さんで見つけた1951-1954年の月刊誌『国際文化画報』。
特集記事【画壇の明星】で毎月一人ずつピックアップされる世界の巨匠たちは、70年前の日本でどのように紹介されていたのでしょうか。

今回は1952年(昭和27年)1月号と2月号です。

********************

1952年1月号の【内外 画壇の明星】(其六)は<ポル・セザンヌ>。

画像1

セザンヌ本人についての紹介です。

「潔癖で頑固な人」
「独自の強い信念をもって画業と取組み、媚びることなく描きつづけた一生は 物語的ではない

↑ 先月号までゴッホやゴーガンなどの特集が続きました。偉大な画家の人生に “物語” 性を求めてしまいがちな読者を牽制しているのかもしれません(笑)。

真率しんそつさは筆の凄さや僥倖ぎょうこうや虚偽を恐れ一本道の正直さで好奇的なものは排斥した。そして純粋絵画を主張しつづけたのであった

↑ ???。文章がわかりにくい原因は翻訳にあるのでしょう。
“芸術的価値のみを追求するために、愚直に制作に取り組んだ”、ということにしておきましょう。

記事はセザンヌの ‘人となり’ についての記述に終始し、今月号は画家の経歴や作品の特徴についての解説はほとんどありません。残念!。
しかし、“これがセザンヌだ!” と作品の写真がドドーンっと掲載されているのでインパクト 大 。当時の人々は衝撃を受けたのではないでしょうか?

印刷技術も日に日に向上していたのですね。ここで採用されている「七色プロセス版」がどのようなものか私にはよくわかりませんが、先月号より写真が鮮明になったような気がします。

**********

1952年2月号の【内外 画壇の明星】(其七)は<パブロ・ピカソ>です。
セザンヌに続いてピカソですか…。素敵✨。

画像2

赤い文字でこのように書かれています。

彼は天才か山師やましか?とは有名な話である、山師と思われるほどの天才とも言える。
彼の作品は不可解だが ピカソは言う「なぜ人々は私の絵を判ろうとするのだろう。美しい小鳥の声を理解しようとする人がどこに居るだろうか?」
フランスの人々でも彼の絵を理解する人は少ないのに日本で大騒ぎをするところを見るとその鑑賞者の受けいれ方はなかなか高いと言わねばならない

“これが天才画家です” と初めてピカソ作品を見せられた 70年前の日本人は、度肝を抜かれたに違いありません。「なんじゃぁ、これは⁈」(笑)。
山師(≒いかさま師)と思われるほどの天才」という言葉には、ゼロか100かという振り幅の大きなピカソの 突き抜けた才能が表現されているようで、個人的に好きです。

何より面白いのは、記事を書いている記者本人も、まだピカソが天才である所以を理解していないことがありありと伝わってくること。
ピカソ作品は「不可解」だと言い切った後で、これを受け入れようとする日本人は、フランス人にも負けない意識の高さがあるんだねぇ〜” と言っています(笑)。

1925年 ピカソの転換は超現実主義に変わり それ以来いわゆるピカソ型のよく判らない絵になったのであるが、これは観点の移動廻転ということで一つの物を方々から見て その形を一体に綜合して新しい形体感を創作するというピカソの主観的な手法なのである

↑「観点の移動廻転ということで一つの物を方々から見て その形を一体に綜合して新しい形体感を創作する」= キュビスムのことを「ピカソ型のよく判らない絵」と表現しているところが、とても正直で面白い!。
セザンヌからの影響も受けたと言われるキュビスム。1月号からうまくリレーできています。

1951年 70才。旺盛な制作意欲と共に健在である

そうか。
ピカソが 91歳で亡くなるのは1973年。この記事が書かれたときから、まだ22年もある!!。ピカソはまだまだ変化を続けていくのです。

健在で大活躍、まだまだ進化を遂げるであろうアーティストを評価するのは、とても難しいと思いますが、今回の記事はとても興味深く読むことができました。

********************

さて。
1952年2月号には、野口イサム氏(当時46歳)が山口淑子さん(当時31歳)と結婚した時(1951年12月15日)の写真が掲載されていました。

画像4

野口イサムとは、20世紀を代表する彫刻家=イサム・ノグチ氏のことです。
お相手は日本人でありながら中国で育った山口淑子さん(当時31歳)。李香蘭の名前で人気歌手だった彼女は、日本に帰国後 女優として活躍していました。

ノグチ氏の顔が見切れてる…。
素人が撮影したプライベートショットのようで微笑ましい、と思うことにしましょう(笑)。
写真3枚だけのページなのですが、山口淑子さんの方が如才なく立ち回っているように見えます。

+++++++++++

西洋絵画を鑑賞するようになった2018年、香川県にあるイサム・ノグチ庭園美術館に行きました(写真は公式ホームページより)。

画像4

当時の私は彫刻には全く関心がなく、イサム・ノグチという名前だけを聞いたことがある程度。香川県 直島から徳島県の大塚国際美術館へ移動する途中に「せっかくここまで来たのだから、ちょっとだけ…」と立ち寄ったのです。

そこは、外界と境界線で区切られた美術館とは異なり、周囲の大自然に溶け込んだ一つの空間・環境作品となっています。150点を超える彫刻 ひとつ一つの作品についてはよく理解できなくとも、イサム・ノグチの世界観に触れることができたような気がしました。

+++++++++++

その時に感じた世界観を思い出すため、イサム・ノグチ(1904-1988年)氏の経歴を辿ってみました。

詩人の父(日本人)と作家の母(アメリカ人)を持ち、医学部在籍中にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻クラスに通う…。
パリではブランクーシの助手を勤め、日本で北大路魯山人に陶芸を学ぶ…。
交友関係には、フランク・ロイド・ライトや丹下健三氏もいたそうな。
錚々そうそうたる人たちと交流があったのですね。
私のイメージは、作品も生き方もカッコいいおじ様✨。

この年(1951年)、ノグチ氏は大きな転換期を迎えていました。自身がデザインした庭園が東京に竣工し、また広島平和記念公園の設計コンペに勝利した丹下健三とともに広島を訪問、広島市から平和大橋の欄干デザインを打診されていたそうです。そして12月、山口淑子さんと結婚し、鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたのです。
そう考えると、やはりノグチ氏の顔が見切れているのが残念。大きな写真で幸せ絶頂の笑顔が見たかったです(涙)。

+++++++++++

国籍や周囲の環境、そして自身のアイデンティティの確立に苦しんだ同志として引かれ合い 結ばれた二人でしたが、1956年に破局を迎えます。

山口淑子さんは、ノグチ氏と別れた2年後に外交官と再婚し、司会業そして政治家として活躍の場を広げて行きました。リポーターとして北朝鮮を訪問し、国家主席(当時)金日成と会談したこともあるそうですよ。
旦那さんと死別するまで43年間添い遂げ、ご自身は2014年に94歳で亡くなっています。中国、日本、アメリカと活躍の場所に合わせて名前を変え、自ら人生を切り拓いていった彼女は、1951年のお祝いの席で見せた笑顔のイメージ通り如才ない振る舞いで、華やかな人生を送ったんだなぁ…と勝手に納得しました。

+++++++++++

一方、その後もモニュメント、庭や公園などの環境設計、インテリアから舞台美術まで幅広い活動を続けたノグチ氏は、山口淑子さんと別れたあとは生涯お一人だったようです。

経歴を辿っていくうちに思い出しました!
3年半前にイサム・ノグチ庭園美術館の屋外展示の中に立っていた時、まるでドローンからカメラを向けられて、私を取り巻く小さな世界を撮影されているような錯覚に陥りました。
映し出された映像はありふれた日常の一場面なのに、まるで宇宙を彷徨っているように解放された気持ちになったのです。

ノグチ氏の世界観を言葉で説明することは、やはりできません。
しかし、彼の求めるものが香川県牟礼町のあの場所にあるのだとしたら、山口淑子さんと共に生きていくことは難しかったのかもしれないなぁ…。
と勝手な妄想をしてひとりで納得したのです。

********************

セザンヌ、そしてその後の世代を生きたピカソとイサム・ノグチ。
『国際文化画報』1952年1月号と2月号も楽しく読ませていただきました。

<終わり>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?