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広大な森の中で小さな「花」に注目

描き込まれた小さな「花」から作品全体を読み解く、国立西洋美術館の巻。
前回の続きです。

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今回はピンク色の花からスタートです。

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輪郭線など全く描かれておらず、色を乗せた筆で素早くカンヴァスに描かれた花 … バラのようです。花を摘んでいる途中でしょうか、右隣にはまだ何も入っていない籠がありますね。

ウジェーヌ・ドラクロワ『聖母の教育』(1852年)

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46×55.5cmという小さ目のサイズなのですが、展示室に入るといつもその空の鮮やかな青色に吸い寄せられます。そこだけ絵画作品とは異質な感じがして…まるで、壁にポッカリ穴を開けて本当の青空を映し出しているようで見入ってしまうのです(ぜひ展示室で見てください!)。
ドラクロワ作品を鑑賞するとき、いつも色彩を目で追っていきます。
青空に惹きつけられて、木々の深い緑に覆われたカンヴァスを感じたら、聖母マリアの赤い上衣、そして足元の小さな小さなピンク色のバラを見つけるのです。
色彩で見せる絵画…素敵✨。

国立西洋美術館にあるこの作品は、実は10年前に描かれていた『聖母の教育』の別バージョン。1842年に描かれた作品をパリ・ドラクロワ美術館で観てきました(写真左)。

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本作(右)よりひと回り大きい作品は、ドラクロワがジョルジュ・サンドと恋人のショパンが暮らす別荘を訪れたとき、そこで家事を任されていた母娘をモデルにして描いたものだそうです。
聖母マリアの左肩に手を乗せて娘を導く母アンナは、少し厳しい表情をしているようですね。うんうん『聖母の教育』というタイトルがピッタリきます。全体的に落ち着いた色調で、母娘を中心に描いているため、背景がどんな様子だったのかは全く覚えていませんでした。

どちらの作品が評価されているのか、貴重であるか、美術史的に意味があるか…などは全くわからないのですが、10年後の『聖母の教育』が日本に居てくれて私は嬉しいのです。だって、常設展に行くたびにドラクロワの青空に胸のすく思いをさせてもらっているから。

「ドラクロワといえば何色?」
以前は「赤」だったのですが、この作品に出会ってから、密かに彼の「青」にも注目しています。

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部分撮影なのですが、ここだけでも穏やかな春の陽光を感じます。

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黄色い束は水仙の花でしょうか。

ジャン=フランソワ・ミレー『春(ダフニスとクロエ)』(1865年)

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ダフニスとクロエの成長と愛の成就が語られている古代ギリシャの物語をモチーフにしてミレーが描いた『春』らしさ満載の一枚。

以前《松方コレクション展》の投稿でこの作品について書きました。
『春』は銀行家トマ邸の装飾パネルのためにミレー が描いた「四季」の一作。
壁を飾る、
『春(ダフニスとクロエ)』国立西洋美術館、
『夏(豊穣の女神)』ボルドー美術館、
『冬(凍えたキューピッド)』山梨県立美術館、
そして天井を飾るための『秋』があった。
火災で天井画の秋は焼け落ちて現存せず、残った3枚は現在バラバラになっている。現存しない『秋』の素描を国立西洋美術館が所蔵しているので、これらを一堂に会する展示会を熱望する!と。

なんと、その夢はすでに実現していたのですね!
1991年《「四季」アース色のやさしさ〜ミレー 展》。
先日 展示会の図録を見つけて読ませてもらいました。そこに書かれていたトマ邸装飾<四季>についての井出洋一郎先生の論文も読みましたよ。
展示会の存在を知らずに偉そうに投稿していたのが少し恥ずかしい💦。

『春』『夏』『冬』そして『秋の素描』と「四季」が勢揃いした会場では、どんな展示をしていたのでしょうか。見たかった〜っ!
150年前のトマ邸の一室にワープできたかもしれませんね。

今回、「詳しく調べもせずに 軽々しい投稿はできないな」と少々反省しつつも、「私は専門家ではない単なる絵画鑑賞愛好者なので、これからも好きなことを言っていいはず」、と開き直ったりもしたのです。

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こんなに拡大したら何を描いているのか分かりませんが、やはり小さな花でしょう。伸びやかにそして柔らかに筆を運んでいるような気がします。

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そして奥に広がる ぼかしたような灰色は…。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー『ナポリの浜の思い出』(1870−72年)

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コローが晩年に描いたこの作品、毎回 展示室で観るのを楽しみにしています。
この作品の前で爽やかな浜風を思いきり吸い込んだなら、女性が手にしたタンバリンのリズムに合わせて、木々や草花が軽やかに踊っているのを感じて楽しくなるのです。
拡大した画像をもう一度見てみると、やはり花たちも踊っていました。

175×84cmという何とも縦長の作品がもたらす効果について、うまくお伝えしたいのですが 私には小学生の作文のような表現しかできません(涙)。
素敵な表現を見つけました。

高さと奥行きが均衡を保って、われわれは見上げる快感と見透かす快感とを同時に味わうことができる(佐々木英也先生)。

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こちらは色味を抑えた小さな花。

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ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ『貧しき漁夫』(1887−92年頃)

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この作品、いまだに好きになれません。
どこがいいのかしら?と失礼な感想を持ちつつ、他の作品では感じたことがない わたしの気持ちの「どこか」がザラッと反応を起こすのです。そしてそれは近くに展示されているギュスターヴ・モローの作品も同様。不思議です。
【象徴主義】の良さがまだわかっていない現段階では、「自分の心の “あの部分” がザラッとするのが【象徴主義】」と理解しています。

こちらもオルセー美術館で同じ題名の異作を観ました。
『貧しき漁夫』(1881年)

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6〜10年近く前に描かれたオルセー版は、少し横長のカンヴァスに少女と眠る赤ん坊が岸辺に描かれ、色味が少し鮮やかに思えます。
オルセーで見た時は、亡くなった赤ん坊を弔っているように見えました💦。

去年3月《ハマスホイとデンマーク展》について投稿したとき、
___ハマスホイは1888年、1897年コペンハーゲンで開催されたシャヴァンヌ展に刺激を受けたそうです。
壁画装飾家であったシャヴァンヌはタブロー画とは違う壁画本来の機能と特質を生涯をかけて追求したといいます。静謐な安定感が求められる壁画の装飾の世界。なるほど、なるほど___
と偉そうに書いていました。

1年以上前にシャヴァンヌについて少し資料を読んだことを思い出しました💦
私の勉強は、10を知って9を忘れていく…そんな牛の歩みなんだ!と思い知らされましたが、頑張ります(笑)。

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拡大画面の左端に縦ストライプのスカート?なんともしっかり太めの輪郭線が見えます。失礼を承知で発言すると、ここだけ見たら絵画教室の生徒さんの作品かも…なんて。

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おーーーっ。作品全体を見ると何とも独特の世界観が広がっているのです。

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左)ポール・ゴーガン『海辺に立つブルターニュの少女たち』(1889年)
右)ポール・セリュジエ『森の中の4人のブルターニュの少女』(1892年)

ブルターニュの少女を描いた2枚の作品。面白いですね。
まずゴーガンの描いた『海辺』版から。

1889年の大半をブルターニュで過ごしたゴーガンは、同年の暮れにサン=レミにいるゴッホへ手紙を送っています。
__今年、雌牛を連れて海辺をぶらつく素朴な農家の子どもたちをよく描いた。私はこれらの侘しい人物像に「野生」を吹き込もうとしている。それは彼らの中に感じられるものであり、私自身の中にもあるのだ(抜粋)__ と。

そして村上博哉先生の作品解説がこちら。

前景の片隅には、2・3本のあざみの茎が慎ましい赤紫色の花を咲かせている。乾いた荒地に生え、触れようとする者を棘で傷つけるあざみの花は、ゴーガンがブルターニュの少女たちの中に認めた野生の象徴なのであろう。

自然に生息している花を再現しているのではない…、ゴーガンが求めた野生の象徴として描かれた あざみ。ガッテンです!

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次にセリュジエが描いた『森の中』版について。
セリュジエは、ブルターニュに滞在していたゴーガンに直接会い、その作品を見て、彼の思想を聞いたことで大きな転機を迎えました。自身の作品は直感に従った非自然主義的な色使い、形の単純化、装飾性へと向かいます。
そして【ナビ派】の他の画家たちにゴーガンの芸術思想を伝えるという重要な役割を果たしたそうです。

この作品、赤い川の流れに見られる色彩や構図が面白いですね。また 拡大した水仙の葉だけを見ても、輪郭線があったりなかったり…。奥が深そうです。

【クロワゾニスム】や【ナビ派】についてはまだまだ勉強が及んでおりませんが、展示室でも横に並んで展示されているゴーガンとセリュジエのブルターニュの少女たち。今はその独特の世界観を楽しむことで良しとしましょう!

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もっと書きたいことは沢山あるのですが、投稿が長くなってしまったのでこの辺で切り上げます。

前回と今回は作品に描き込まれた小さな花に注目しました。
あまり興味が持てなかった画家に関連する資料を読む良い機会となり、新鮮でした。

広大な “絵画鑑賞の森”。まだ入り口付近をウロウロしているのですが、先を急ぐことなく今のペースで楽しんでいきます。牛の歩みでも間違いなく前に進んでいるのですから。

<終わり>

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