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画壇の明星・ドガと“調整力”

古本屋さんで見つけた1951年〜1954年の月刊誌『国際文化画報』の特集記事【内外 画壇の明星】について投稿しています。

今回は1951年(昭和26年)8月号です。

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今月の【表紙】(ヘッダー画像・左)は…森光子さんかしら?
と思ったのですが、正解は水谷八重子さん。失礼しました!お名前だけは…聞いたことあります。

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特集【内外 画壇の明星】第4回はフランス印象派の画家 エドガー・ドガ(1834-1914年)です。

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エドガー・ドガ『バレエのレッスン』1874年(オルセー美術館)

そして彼の紹介記事がこちら。

巴里に画室を定めてからは画商や展覧会や批評家などを無視して有閑階級の中でブルジョア趣味に浸ってわがままに振舞い稀に美しい繪を描くので神秘的な人物として畏敬されていた。(中略)
この幸福な画家の運命の幕も1914年に下りた。ドガは失明したのである。画家の命は悲惨にも奪われた
そして1917年9月17日に自ら求めた孤独な生涯を終えたのである。

確かに、美術書などでドガについて調べてみると、“気難しく毒舌家、周囲との喧嘩が絶えなかった” などと出てきます。しかし、それにしても ちょっと辛辣すぎませんか?と心配になる紹介文です(笑)。
私は「ドガは、“自分の感情” と “行動”、“伝えたい気持” ちと “発する言葉”などの調整が得意ではなかった人」ではないか、と個人的に思っています。

ただ「芸術家には変人が多く、人間的には問題ある人ばかりだ!」と以前の私も勝手に思っていた節があるので、この記事を読んだからとて 特段 嫌悪感を抱くことはないのかも知れません。
西洋絵画をまだよく知らない70年前の日本人に、ドガという人の特徴をざっくりわかりやすく説明するには良いのかも…と譲歩しましょう。

古典絵画を学んでいたドガは、当時のアカデミーの重鎮 新古典主義のアングルを崇拝していたといいます。ドガ 21歳(1885年)の時にはこんな『自画像』(オルセー美術館)を描いています。

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21歳の若いドガが自らを描いた 最初の本格的な作品です。
真面目だけど 自分にも他人にも素直になりきれず、少し冷ややかな視線で世の中を見ている若い画家。私のイメージするドガはこの人。とても魅力的な自画像だと思います。

記事で気になったのが、画家の紹介文と一緒にあるドガ(らしき)画像。

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ここだけ白抜きでちょっと違和感あります!印刷の色刷りが間に合わなかったのでしょうか。

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1854-1864年にかけてドガが制作したという40点の自画像。そのどれかを使用したのだと思いますが、「これだ!」という作品を見つけることはできませんでした。
しかし、短いあご髭を生やしてボヘミアン・ハットを被った クラーク美術館所蔵の『自画像』(1857-58年)(画像左)がこの掲載画像に近いですね。
「うん、見えづらいけど 間違いなくこれはドガです!」と私は確認できました。
が、当時の人はどんな風に感じたのでしょうか…。

しかし、しかし。
敗戦のため自由に海外旅行もできなかった1951年。自分たちの足で資料を集め、翻訳し、信憑性を確かめ、そして分かりやすく記事を書き、さらに画像を集めて印刷へ。
限られた人員で締め切りに間に合わせて毎月雑誌を発行していくためには、さまざまな挑戦と妥協といった調整力が求められたことでしょう。
なんとも…天晴れ!です。

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さて、1951年8月号で興味を持ったのが「電力の問題」の記事。
“経済立国の原動力『電力』は不足する”、“電気のない文化生活はあり得ない”、と小見出しが踊ります。
つい最近、中国の電力事情について見たニュースを思い出しました。
経済成長・文化生活と電力問題は、切っても切り離せないのですね。

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こんな文章がありました。

北から南へ細長く伸び海洋性と大陸性の気圧にはさまれている日本国土は降雨にめぐまれ需要電力の大部分は水力発電によって豊水期にはどうやら需要が賄えるが、冬期渇水期には到底需要を満たすことができず。

1951年、需要電力の大部分は[水力発電]だったのですね!
2021年、日本の電源構成はどうなっているのかしら?少し調べて表にまとめてみました。

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2010年の電源として25%を占めている【原子力発電】はいつから始まったのでしょうか?

1945年8月、敗戦国の日本は、原子力に関する研究自体が全面的に禁止されていたそうです。研究が再開されたのは1952年4月に結ばれたサンフランシスコ講和条約のあと。
1954年、原子力研究開発予算を提出、1955年原子力基本法成立し、原子力委員会そして科学技術庁が発足と歩み、最初の原子力発電が東海村で行われたのは1963年10月だそうです。

少ない燃料で 24時間安定して発電できる上に、二酸化炭素をほぼ排出しないクリーンな【原子力発電】が、2010年には全体の4分の1を占めるまでになりました。
しかし、2019年には全体の6.2%へと激減。
2011年3月の東日本大震災の津波による福島第一原子力発電事故発生を契機に、日本の原子力政策は大きく舵を切る必要に迫られたのですね。

1951年に[水力発電]が主流だったように、環境問題を考えると【再生エネルギー】の利用が最適なのでしょう。しかし地理上の問題や発電量の不安定さから、思うように進んで行かないのが現状。
一方で、発電量の調整がしやすい【火力発電]は資源を輸入に頼っている上に、何といってCO2の排出問題があります。

環境問題、経済、地理、何より我々国民にとって、そして将来の地球人にとって何が最優先とされるべきなのか…。
総合的な知識や研究、そして各方面で目的を見据えた抜群の調整力が求められているのです!

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日頃 ニュースで聞き流している原子力発電の問題について、1951年の雑誌から興味を喚起させられました。

私には 地球規模🌏の知識の習得や判断はできません、当たり前ですが。
しかし日々の出来事において、総合力を高め、的確な判断が下せるように利害関係の調整をうまく取っていきたいなぁ…と強く思ったのでした。

<終わり>

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