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画壇の明星(13)・ヴラマンクの遺言状
古本屋さんで見つけた1951-1954年の月刊誌『国際文化画報』。
特集記事【画壇の明星】で毎月一人ずつピックアップされる世界の巨匠たちは、70年前の日本でどのように紹介されていたのでしょうか。
今月は、1953年3月号です。
前回投稿した『画壇の明星(12)』は1952年7月号だったのですが、古本屋さんに在庫がなかったようで、7ヶ月分が手元にありません。残念ですがやむなし。
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今回の【内外 画壇の明星】はモーリス・ド・ヴラマンク。
実は、ヴラマンクとはご縁があります。
2017年9月。レンタカーで山梨に家族旅行したとき
「美術館が近くにあるらしいよ。時間があるから行ってみる?」
と軽い気持ちで訪れた山梨県立美術館。
その 4ヶ月前に絵画鑑賞に目覚めたばかりの私は、そこがジャン=フランソワ・ミレーの作品所蔵で有名な美術館であることも知らなかったので、えっ⁈ あの『落穂拾い』を描いたミレー の作品があるの?と驚いたものです。
そして「開催中のヴラマンク展も是非ご覧ください!」との声がけに、
「それって、有名な人ですか?」
「へぇ〜、まあまあ有名な人なんだったら 見ていきます」と。
恥ずかしい…。しかし、鑑賞できて本当によかったです。
その時の感想は、
好きなことをして人生楽しんで長生きした画家なんだ、
雪に覆われた村の厳しさと美しさを本当に知っている人だろうな、
この人の描く花の絵は好きかも・・・
といった程度でした。重ねてお恥ずかしい限りです。
それでも とても気になる画家・作品だったので、ヴラマンクという名前と【フォービスム】の名称だけはしっかり覚えておこう!と思ったのです。
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さて【内外 画壇の明星】の記事にはこうあります。
ヴラマンク(1876ー )は、1910年頃からセザンヌ風の筆致で青と黒を基調にした風景を描きました。なんとなく荒っぽい調子で、色調が沈静になっても骨っぽい気質はそのままでした。彼の後年の絵画もきわめて大ざっぱで、感覚的です。
“なんとなく”って解説はいかがなものでしょうか。
“荒っぽい調子” ってどんな調子?。
“きわめて大ざっぱ” “感覚的” という言葉のチョイスはいかがなものかしら!
おそらく翻訳するときのニュアンスが難しいのでしょう。
そういえば、 <ロンドン・ナショナル・ギャラリー展>(2020年国立西洋美術館)を監修された川瀬先生が、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの功績として、
フランス・イタリアといった “芸術先進国” に文化面で遅れを取っていたイギリス市民がゼロからつくった美術館であること、
そして美術を表現、評論するための「英語」が成熟することになった
というのをお話しされていたような気がします。
なるほど。
ちょうど今から70年前の本誌記事。美術を表現する「単語」や美術評論の「日本語」もまだまだ成熟していなかった時代ですから温かく見守りましょう。
“骨っぽい気質” という表現は見事ですよ、「頑張れーーっ!」。
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モーリス・ド・ヴラマンク(Maurice de Vlalminck)について調べようと、本棚を探してみました。
作品よりも、彼自身の言動、生き方に興味が湧きます。
「1900年にフォーヴィスムの創始者アンドレ・ドランに会う前は、ボクサーであり、チャンピオンレースに出場する競輪選手であり、ヴァイオリン奏者で、アナーキスト新聞によく寄稿した。
ほぼ独学で絵を学び、芸術を自己の革命的な熱意のはけ口と見なすようになった。1901年のファン・ゴッホの展覧会に大いに感銘を受け、そこでドランからマティスを紹介された。」
「ヴラマンクはフォーヴの画家の中でも最も波乱に富んだ人物で、自分でも絵によって「悪に走る」のを救われたと率直に認めている」
面白い!
画家としてはほとんど独学だったヴラマンクは、むしろそれを誇りとする異端児的な存在で「私は美術館には決してゆかない。あの臭さ、あの単調さ、あの堅苦しさを私は嫌う」と公言してはばからなかった___(中略)豪放磊落なヴラマンク
カッコいい!人間として無性に惹かれます。
そういえば、東京ステーションギャラリーで<佐伯祐三展 自画像としての風景>が開催中ですね。自分の自信作を見せるために会いに来た佐伯祐三に対して、ヴラマンクが
「このアカデミスムが!」
と怒号を浴びせたという話に、大いに納得するのでありました。
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いかん、いかん。
ヴラマンクの「作品」についてもっと知りたいのです。街中をウロウロ彷徨っていると、古本屋さんで2008年に開催された <没後50年 モーリス・ド・ヴラマンク展> の図録を発見!。タイムリー!と早速購入。
よしこれで・・・と表紙をめくると、そこに1957年80歳だったヴラマンクがアール誌に載せた「遺言」が載っていました。
いやぁ〜。素敵な「遺言」にすっかりこころ持っていかれました。
作品についての考察は次の機会に譲ることにして、今回はヴラマンクの「遺言」を全文引用して終わりたいと思います。
お時間がある方は、ぜひお読みくださいませ。
これは私の遺言である。
現在私は80歳である。人生は短い。しかし、私はいまだに空を眺めることができ、この地上で万物の生命が脅かされている無数の災難に巻き込まれなかったことについて驚いている。また、文明化した人間が作り出した科学の野蛮さに現在まで抵抗することができたことにも、これまで恥ずかしさのあまり地下の虫にならずにすんだことにも驚いている。
生命は指で触れることができそうである。目の前に現れ、感覚で捉えることができる。
私の老いたる心の中で今なお生き生きと輝くロイスダール、ブリューゲル、クールベ、セザンヌ、ファン・ゴッホらの作品。それらが私にもたらした深い感動を、あらゆる方々に無料で進呈しよう。そして、私が嫌悪し、拒絶しているもの、殺菌した牛乳、薬、ビタミン剤、代用食品、装飾的判じ物のごとき抽象絵画なども惜しみなく、心おきなく進呈しよう。
なぜなら、私はこの老齢にもかかわらず、台所と薬局、田舎とサナトリウム、労働と生産力、悪と愛の違いが分かり、いまだにフランス料理を味わって、茸添えの鶏、フライド・ポテト添えのビフテキ、キャベツ添えの鶉の味を楽しんでいるからである。
私は苦しみを体験しなかった人たちを気の毒に思う。また苦しみから独力で抜け出ることのできなかった人たちも気の毒に思う。苦しみは深い傷跡を残す。悲恋の涙は忘れがたいものだ。その涙の苦い味は唇が覚えている。丈夫な歯を持ち、空腹な人は、固いパンもとてもおいしく食べることができる。美しい声を持つ人は、苦しくとも歌うだろう。画家や作家を滅ぼすのは金そのものではない。金がもたらす安楽、金が生み出す新しい欲望が病原菌、毒性細菌となるのである。それは人生の形相を変貌させ、内なる感覚をゆがめ、最初の頃のみずみずしい真実の花をしぼませてしまう。作品の運命は、殻を破り、芽を吹き、成長して花を咲かせる植物の種の運命と同じである。
画家は発明家ではないのだから、絵画が発明品であるはずがない。
真に個性的で独創的な表現は稀有なものである。芸術家も人間である以上、すでに用いられた方法、すでに再検討済みの方法、すでに使い古された方法しか多くの場合用いないものだ・・・。
自分自身の内面の姿を最も奥深いところから浮かび上がらせて人に理解してもらうことはいかに難しいことか!
絵筆やパンの下に渾然と折り重なる様々な感覚をかいくぐり、真実の感覚をより分け、見分けることはいかに難しいことか!
私は若い画家たちに、野に咲くあらゆる花、小川の岸辺、平原の上を通る過ぎる白い雲や黒い雲、川、森や大樹、丘、街道、冬に雪で覆われた小さな村、美しい花が咲き乱れ、鳥や蝶が舞い飛ぶ草原全体を遺贈する。
これらの財産、季節ごとに生まれ、花咲き、脈打っている貴重な財産、光と影、空と水の色という財産は、私たちが代々受け継いでいく貴重な財産であり、傑作を生み出す推進力でもある。私たちは時々そのことに思いを巡らせてもよいのではなかろうか。
私たちの共有の宝物。それに対しては税務署の権利も及ばない。そしてそれは、かつて目にした野原や牧場の様子が今も目にまぶしく焼きつき、かつて耳にした泉の響きが今も耳に残る老画家が公証人を煩わせることなく遺贈できるものなのである・・・。
それら全てを私たちは今後十分に享受しうるだろうか。あなた方は十分に堪能しうるだろうか。白み始めた夜明け、二度と繰り返されない一日は感動的なものである。それらの不滅の深い情感をカンヴァスにとどめようとするにあたって、あなた方はそのことを十分に理解しておられるだろうか。私はついぞ何も自ら求めなかった。人生が私に全てを与えてくれた。私は自分になしえたことをなしとげ、自分が目にしたものを描いた。
<終わり>
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