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『修験は縄文からの系譜』いつの時代も集落を支える人材の育成は最重要事項です。

いつの時代も集落を支える人材の育成は最重要事項です。縄文じょうもん時代も頑強な若者の育成、コミュニティの結束のため、また同族で血が濃くならないために「祭り」という形で他の部落との交流がありました。

私は縄文時代に行われていた人材育成方法、祭りや医術などの社会生活を形態化したものが|修験《しゅげん》だと思っています。修験しゅげんというと白い装束を着て険しい山道や崖で修業をするという印象があるかもしれませんが、修験しゅげんは社会生活にものすごく密接なものでした。そのひとつに薬師如来やくしにょらいに代表されるような、薬の神さまがあります。薬を造れる集団は修験しゅげんでした。それが仏教ぶっきょうと結びついて、薬師如来やくしにょらいという形になったと私は思います。

奈良時代の僧侶そうりょに|行基《ぎょうき》と|役行者《えんのぎょうじゃ》がいます。この二人は同時代に存在し、実に面白い生き方をしています。中国大陸から伝播でんぱした陰陽思想おんみょうしそう縄文じょうもん時代から続く社会生活や文化を修験しゅげんという形に昇華しょうかさせたのが役行者えんのぎょうじゃ、奈良の大仏造営だいぶつぞうえいや民衆への布教ふきょうなど仏教的側面から活躍したのが行基ぎょうきです。仏教は行基ぎょうき修験陰陽しゅげんおんみょう役行者えんのぎょうじゃ。この二人が確立した思想や行動規範きはんは、のちに|富士講《ふじこう》や|伊勢講《いせこう》、|忍《しの》びなどへと発展し、日本のコミュニティや文化に色濃く残りました。

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