怪文書(2022/12/20)

思ったことをぽつぽつと。

私は偏見に塗れているが、その偏見にもある程度の合理性を担保しようといつも必死になっている。

たしかに、殊偏見においては合理性というものはこじつけでも一応は成立するから、私はいつでも不鮮明な安心感を手に入れることが出来る。

しかし、私はそれで十分に満足できる訳ではない。もっと明瞭で確固とした基礎が欲しいのだ。

こう考えたところで、いつも自分が馬鹿らしく思える。

偏見を確実にするために、何を私は悩んでいるんだ。 

そう思って一旦忘れてみても、人間を見ればまた同じことをしている。

私は結局、不快感をもたらした存在に対して、攻撃するための大義名分が欲しいだけなのだ。

不快感の理由は、そのほとんどが感情的で非合理的なものだから、本当は合理性の入る余地などないはずなのだ。

ただそう感じているだけの自分が気に入らないから、惨めだから、醜いから、どうにか体裁を保とうとしているだけなのだ。

そんな私に嫌気が差しつつ、その自己嫌悪を経ずに偏見を矛と盾にしている人間を見ると、どうにも耐えられない。 

嫌なことばかりが目について、記憶に残って、やがて歪んだ人格になっていく感覚がある。

負の螺旋階段を転げ落ちている石に苔は生えないが、削れて割れて、そのうち消えてなくなりそうだ。

私は今日も何をしているのだろうか。

明日はもう少しちゃんと生きたい。



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