怪文書(2022/12/28)

もう全然酔ってないんれすけろ、酔いたい気分れす。

私はいつも、意識して善行を積んでいます。それは仏教的な徳を積むことで来世でいい思いが出来るからとかではなく、そうすることが善いからしています。

しかし、私は別に聖人でもなんでもないので、精神的物質的満足が少しも得られないことを敢えて続けたくはありません。

私が誰にも見られないところで善行を積んで、私に何か利益があるんでしょうか。

私が見知らぬ人を助けたとしても、彼らはそのうち私の存在など忘れてしまいます。

誰かに助けられた経験がまた誰かを助ける動機になるとして、それが本当に私に巡り巡ってくることなんてあるんでしょうか。

善行の目撃者も当事者も、その行為者はおろか行為すら記憶に残らないことの方が圧倒的に多いですよね。

意識して善行を積むのがあほらしくなります。

とはいえ、善行を積むのは習慣になってしまって、目の前に善のために為すべきことがあるときに、それを無視できるような性分でもなくなってしまいました。

私の基準で善とされるだろうことのうち、私が行動することで善を実現できる場合には、積極的に実行に移さないとフラストレーションが溜まる一方で、自分自身に利益がないのになんでやらなきゃならんのかと反抗する自分も飼っています。

なんなんですか私は。善行にただ乗りされるのはもう嫌なんですよ。世の中はどうしてこんなに冷たいんですか。私は搾取される側の立場を甘んじて受け入れるつもりはありません。

あの非情な人間共を死ぬまで苦しめてやりたいと思います。しかし、そんなことに人生を費やすのは面白くなさそうです。やめます。

貧すれば鈍する。分かってはいるんです。余裕がない人間たちの多くは好きで人情が欠落している訳ではないこと。でも嫌いなことには違いがありません。出来ることなら関わりたくない。

失望しています。

失望し続けています。

人間に拘る価値を、人間を尊重する意味を信じられなくなりつつあります。

人間に対する憐みの感情を持つのに工夫が要るようになりました。

生まれながらに共感能力が低いのに、人間全般に対する嫌悪感や失望感から、彼らへの同情を積極的に拒否したくなる感情が生まれてしまいました。

人間嫌いは今に始まったことではありません。私は子どもの頃から関わる人間の繊細な感情を理解するのが苦手ですが、関わる人間の行動の動機となる思考や欲望や感情には人一倍敏感です。

幼少期は悲観的な性格ではなかったのですが、馬鹿正直に他者に無際限の信頼を預け、そして何度も裏切られた結果、常にその行動の動機を疑う癖が出来てしまいました。

人間の捉え方が悲観的なのは、私が悲観的な性格だからというよりも、単に多くの人間が悪質だから帰納法的にそう捉えているというのもあるのですが、まあどうでもいいですね。

追い打ちをかけるように、社会通念が幻想に過ぎないのだということを強く意識するようになってしまった私は、もう縋るものが何もありません。

サンタさんがいないことより、神がいないことを知らせてしまうことの方が余程残酷なことだとは思いませんか?私には何にもないんですよ。

これだけ人間のことが大嫌いなのに、それなのに私は人間愛を求める自分を認めています。自己の内に矛盾が多すぎる。

わけがわからないよ。

酒が飲みたい酒が飲みたい

現実の人間関係はどうしてこんなに醜いんだ?
美しい人間関係が何かを、学んでこなかったのか?
それとも、諦めてしまったのか?
それが普通なのか?
俺が異常なのか?

俺が異常なのは認めるが、より理想が美しいのは俺であって、断じて一般人の皆さまの理想は美しくない。彼らのそれは理想とすらいえない。原始的な欲望に強く紐づけられた出力でしかない。陳腐なものを語るな。失せろ。

要らね~!

どう生きたってクソじゃないか

立派なクソを成し遂げるための動機ってなんだよ。快楽か?

何が俺を救ってくれるんだ?何が俺に情熱を与えてくれるんだ。俺もうそれ持ってないから貰えないと困るよ。

なんもわからん

なんもわからんな

もうええわ ありがとうございました~。

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