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「Today Is A Beautiful Day」

音楽の聴き方は聴く人の自由だと思ってはいる、
新曲が発表されることを「リリース」と呼んだりするが、まるで釣った魚を放流するが如くだ。「世の中に発表しましたよ、あとはお好きなように」
といういわば放任主義とも言える成り立ちをその言葉には含有されている。

しかしだからといって、僕自身がてめえの感情や思いをそこに重ね合わせたりしてるの、制作者側としてはどうなんだろうね…という気持ちもつきまとう。
「そんな意味を込めたわけじゃないけど…」と思われるかもしれない。

さて、橘澄衣さん(すいちゃん)から教えてもらったsupercell のアルバム「Today Is A Beautiful Day」である。
supercellという名前は知ってはいたものの、今回のような機会やふと流れて
くる偶然でもない限り、出会えなかった音楽だったかもしれない。

(以下記事は、橘澄衣さんへの私信に近い形でお送りしますことをご了承ください)


僕自身、いつの頃からか「アンチ・ヒットソング」みたいに振舞っていた部分もあった。
「クラスで流行ってるから」「みんな歌ってるから」
そんな人気めいたものはむしろ軽薄なもので軽蔑に値するとさえ思うこともあった。
僕が僕自身によって好きになった曲ならば話は別だが。巷で共感を呼んでいるラブソングめいたものなどFxxKみたいな気持ちで。

だからラブソングといえば、SAI-HATEを初めて聴いた時、「くだらねえ愛を歌って~」と始まるところに、どこか僕の永遠の反抗期の様なところをくすぐるものがあった。
あとでその曲のタイトルを調べると「ラブソング」とあり、なんと皮肉が利いているのだろうCooL!なんて思ったりして。

まだ聴いたことのない音楽にもアンテナ張り巡らせてはいたい、と思いつつもね。
多くの人々の共感を得るものはそれだけの良さがある、
とは頭では理解しているはずなのに。
だけど映画の宣伝で「全米No.1大ヒット!!世界中が涙した!」
「感動しました!」とかいうのを立て続けに見せられると、「けっ!俗物めが!」なんて思ってしまうんですよ。

余談だけど僕は全くと言っていいほどディ●ニーもジ●リも知らないんですよ
ついでに言うとファミコン世代に生きてきたけどファミコンもほとんど知らない。

───────
スーパーマリオが大ヒットしたころ、クラスの男子のほぼ全員が任天堂のファミリーコンピュータを持っていた。「僕もファミコン欲しいー!」と親にねだったことあったけど、「なんで欲しいの?理由を教えて」と問われ「みんな持ってるし…」何も考えずに僕はそう答えた。
「”みんな持ってる”は理由になりません!」と却下されたのをおぼえているし、僕もそれ以上ねだることもできず「…なんで欲しかったんだろう」と自問するようになった。

僕は物心ついた頃から自動車が大好きで、海外のスーパーカーの名前を写真を見ただけでほとんど答えられるくらいにスーパーカーの写真集を読んでいたし、ミニカーじゃ飽き足りずプラモデルを作り始めたのも幼稚園の頃からだったと記憶している。
そんな僕がラジコンカーを欲しいと親にねだった時はファミコンの時と違って「足りない分は出すからお年玉も取っておくのよ」とあっさり認められたっけな。
あの頃親から言われたことが、のちの僕の自己形成につながっているんじゃないかと思う。
本当に好きなものに対してはとことん突き詰めたくなる。
「誰とも同じじゃない自分」というものを意識するようになった。
──────────

だけどこうして、すいちゃんが「このアルバム大好き!」って言うほどのものならば、やっぱり聴いてみたくなるもので。
すいちゃんと同じ「好き」を共有したい気持ちも勿論のこと、すいちゃんがどんな音楽に親しんできて橘澄衣に成ったのだろうという興味もまたある。
先日の配信で「好きなアーティストが影響受けた音楽も調べて洋楽も聴くようになった」って僕は話したけど、それとほぼ同じ感覚かもしれない。

すいちゃんもまた、僕が紹介した音楽のうち何かどこか琴線に触れてもらえたらいいなと思っている。
自分が聴いてきた”音楽の履歴書”、それはすなわち僕自身が生きてきた軌跡でもあると思うし、僕の「好き」を共有できたらどんなに素晴らしいことだろうとは思う。
軌跡と呼ぶのは大袈裟かもしれない、たとえば同じお菓子を食べて「美味しいね」と気持ちを共有できる他愛もない喜び、それらの延長線上にあると言っていいだろう。
それが先日紹介した乃木坂46の曲たちでもあったし、以降に紹介した”ベースがかっこいい曲たち”にも、僕はそんな想いも込めている。

しかしそれは自分の内面をさらけ出してしまうようでちょっぴり恥ずかしい事なのかもしれないし、僕がこうしてギターやベース弾いているバックグランドというか種明かし的なものになっちゃうかもしれない。
だけど、僕はすいちゃんに僕のこと知ってほしいし、僕の回り道ばかりだった音楽遍歴を通じて何かすいちゃんの役に立てたら嬉しいし、ただ闇雲に聴いたことのない音楽を探すよりは「この人がおススメするのならば」と思ってもらえるのならばこれほど嬉しいことはないし、こうしてあれこれ言葉を散らしていることだって、どこかですいちゃんの作詞のインスピレーションにでもなればいいなと思っている。
そして僕もまたすいちゃんのことを少しでも多く知りたいと思っている。

すいちゃんの配信が終わったあと、さっそく「supercellってどんな”肌ざわりの”音楽だろう」ってアルバム1曲目の「終わりへ向かう始まりの歌」を聴いてみた。
イントロのピアノが、つい昨日僕がすいちゃんに紹介したジョージ・ウィンストンの「Longing/Love」を彷彿とさせる”肌ざわり”を感じ、偶然とは思えない”何か”を感じてしまった。

そう感じてしまうのはきっと自己暗示めいたものもあるのかもしれない。

─────この人こそがFamme Fataleなのかもしれない─────
なんて思ったりもする。
こんな気持ちこれまでも何度か経験しているけどね。
好きなものが同じだったり、同じものを好きだと思ったり。
音楽という表現を通じて、同じ音楽を「好き」だと思って知り合ったわけだから、そうなることはある意味「必然」とも言えるだろう。
だけどその「好き」はお互いにとっての”一面”でしかないとも言える。
しかし配信やオフ会などを通じて、共鳴できるところがいくつもあったりして、それが「好き」を加速させたのだろう。

あくる朝、僕はさっそくその続きのM2「君の知らない物語」を聴いた。
M1ではピアノ弾き語りのような”肌ざわり”を感じたので、そこからM2M3と軽快なバンドサウンドへと続いていく展開に意外性を感じつつ、しかしそのドラムのフィルインの雰囲気だったりヴォーカルのryoさんのかすかにビブラートさせた歌い方にSAI-HATEの橘澄衣っぽさも感じたりして、「ああ澄衣ちゃん”が”好きなんだもんね」と妙に納得させられた。
そしてこの「君の知らない物語」というタイトルもまた、このブログの前段で触れたように「僕の知らない橘澄衣という物語」のページをひとつめくるようでドキドキした。

「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」
君は指さす夏の大三角覚えて空を見る

それに対し

楽しげなひとつ隣の君私は何も言えなくて

と、「君」は当たり前のように星座の名前をそらで言える。
「ランボルギーニ・カウンタック、デトマソ・パンテーラ」などとスーパーカーの名前をそらで言える僕と重ね合わせてみたりして。

「君」が過ごしてきた半生の中で君は星座についてたくさんのことを知ってきた。
それに対して「私」が過ごしてきた半生の中でそれを知らないままでいた。
「好き」を共有したいのに,私が今ここで付け刃で星座を暗記したところで、君が歩んできた異なる時間を埋め合わせることは到底できない。

僕もまた、すいちゃんが好きな音楽というものを、まだほんの一部しか知らない。
生誕で披露された「overdrive」「I Believe」も、僕が”たまたま”その時代を生きていたから知ってたわけで、だけどきっとまだまだ知らないことばかりなのだろう。

しかしこうしてこのアルバムに触れることによって、すいちゃんと「好き」をまた一つ、ひとつづつ共有できることがとても嬉しい。

僕は橘澄衣ちゃんの歌声を最初聴いた時はSAYAKA(神田沙也加)に近いものを感じて「この声好きかも」って思ったのが第一印象だった。
それは僕の中での音楽のボキャブラリーの中からSAYAKAちゃんの声がファッと浮かんできたのであって。

しかしこのryoさんの歌声を聴いて、よりしっくりくるものを感じた。
いや、やっぱりこの「水色」を改めて聴いてると、すいちゃんが歌ってるのも是非とも聴いてみたいと思った。

そしてその後のすいちゃんの配信で、その「しっくりくるもの」は確信と変わった。
すいちゃんが楽しそうにこのアルバムの曲を弾き語りしている姿はとてもよかったし、どの曲もそれぞれの雰囲気に合っていた。

すいちゃんは「歌いたい曲だけど自分の声に合わない曲ってのもある」って言ってたけど、このsupercellに関してはどれも相性いいと思ったし、今後の橘澄衣ちゃんが”まだ僕の知らない一面”を魅せてくれたらどんなに素晴らしいだろうと思う。
それは”引き出し”を小出しにすることによっても、あるいは今後の経験と成長によって開拓してゆけるものでもあると思う。

僕に関して言えば、僕はほとんど歌う機会が無いけれど、ベースやギターに関しては「あの頃こんな演奏するなんて全く思ってもみなかった」ということが今にしてあったりする。
この僕でさえも、当時絶対に弾けないと思ってたフレーズを今弾けるようになっていたりするくらいだし、だからすいちゃんも、自己分析も大切だけど「私はこういうジャンルだから」とか決めつけたりせずに、いろんな歌やいろんな音楽にチャレンジしていってほしいと思う。すいちゃんはまだまだ可能性に満ち溢れているし、現在のキャパシティを超える可能性だって、今後生成することだって出来る。
何パーセントという数値で測れるものではない。それは無限だから。

かと思えばM4「Perfect Day」では今度はギター弾き語りから始まって、「これもまたすいちゃんがチャレンジしようとしていることだな」って思ったり。この辺まで聴いてるとryoさんのボーカルスタイルのバリエーションや引き出しの豊富さを感じるようになる。
統一感はあるけどしかし”押し”が強すぎも無いこの透明感のある声は、聴いてて飽きない。

と思ったらM5「復讐」ではかなりヘヴィ&ハードなオルタナティヴな16ビートが始まる。
このリズム隊の質感はhideの「ピンクスパイダー」を彷彿とさせたりして、結構好きな感じだ。

80年代から90年代に差し掛かると、ロック音楽って8ビートの”縦ノリ”の時代から16ビートの”横ノリ”の時代に移り変わっていったんだよね。
それを象徴するかの有名な曲と言って思い浮かぶのが、Nirvanaの「Smells Like Teen Spirit」だった。

ちょうどこの頃から「ロックにおける激しさ」という価値観が変わってきたように思う。
単純にBPMで測るのならば、従来のHM/HR(ヘヴィメタル/ハードロック)を最極としてた頃よりもスローになってるんだけど、そこに込めたヘヴィネスだったり。それを「グルーヴ」とか呼ぶのかな?
あとこの頃の時代で思い浮かぶのがCoccoの1stアルバム「ブーゲンビリア」なんですよね。
M1の「首。」から「カウントダウン」へと、”静と動”で繊細さとヘヴィネスの二面性を表現したような楽曲が続いていく。


のちに僕が夢中になった”ゆくえしれずつれづれ”の音楽もまた「だつりょく系げきじょう系」とのコンセプトを掲げて楽曲が制作されてきた。

これが”つれづれ”のデビュー曲「凶葬詩壱鳴り」なのだが、当時女性アイドルがシャウト・スクリームを歌うこと自体が前代未聞と言ってもいい頃だったので、まだまだその表現は粗削りだが、やがてメンバーチェンジなどを経て、同じ曲ではあるがその咆哮もサウンドも洗練されてきたように思う。

さて「復讐」に話を戻すと、しかし歌詞をよく聴いてみると意外な結末が。
もしもこの曲をすいちゃんが歌ったとしたら、これは「ご褒美」すぎる!!

M6「ロックンロールなんですの」もカントリー調ロックというまた違ったアプローチで、巻き舌唱法が出てくるけどしかし決して椎名林檎フォロワーになりきってしまうような”やさぐれ感”ではなく、ギリギリのラインで「私は私なんですの」と一線を画す”cuteness”を護持している様は、なかなかあざとかわいい。
僕の自論なんだけど、ロックンロールって「ロックンロールになり切ってしまう」と陳腐に映るのね。とことんロックに突き進め、しかしロックに依存するな!的な。
だからこうして「~なんですの」と、ロックンロールというものをメタ視点で演じてるのは、森高千里の「臭いものにはフタをしろ!」みたいで痛快に思えるんですよね。

「ロックンロールを知らなきゃモグリと呼ばれるぜ」という”音楽通”を「私モグリでいいのよ」とバッサリ斬る。そのアティテュードこそが逆説的に「森高千里こそロックだよな!」なんて思わせてしまう。

かと思えばM7,M8では4つ打ちのEDMからR&Bとバラエティに富んでいて面白い。
僕はバンド始めたばかりの頃は8ビートのロックだったり高速なスラッシュメタルだったりパンクだったり…そんな一辺倒な聴き方をしていたけど、ベースをもっとうまく弾けるようになりたい、ピック弾きでゴリゴリだけじゃなくて指弾きもできるようになりたい、そう思い始めた頃にSPEEDなどのR&Bの影響を受けた音楽に出会って、その絡みで”ベースの師匠”に出会って、その頃から聴く音楽ジャンルが広がっていったと思う。
その頃の随想は
「僕とドリカム(という名のベース遍歴)」

で綴ってあるので、もしお時間あるときにでも。

そんなわけでM8の「Feel so good」は僕もベースに挑戦してみたり。
イントロ本編のカウントが始まる前のローファイな音作りの場面は、それこそ椎名林檎の「丸の内サディスティック」を彷彿とさせたし、ピアノから始まってドラムそしてベースと重なってゆく様だったり、そのリズムパターンで僕が思い浮かべたのはジャミロクワイの「virtual insanity」だった。

配信で僕がこの話をした時のすいちゃんの様子からして、きっと知らないんだろうなーって思ったけどたぶん曲は聴いたことあるはず。しかし”世代”としては知らないのも無理は無いのかもしれない。

翻って僕も、2010年代・2020年代の音楽を知らなすぎたりもするし、まして今は音楽の聴き方も多様化し、「誰もが知ってるヒット曲」ってのも少なくなった。
それにしても僕は、夜遊びだとかofficial髭男爵だとかぜんぜん曲知らないですよほんと(笑)
ルネッサァーンス!
グリーンアップルとか言われても野口五郎の「青いリンゴ」しか思い浮かばない(爆)

さすがにこの曲は僕が生まれるよりも前だけどww
でも聴いてみると、いい音楽って自分が生まれ育った時代とは全く違う時代にもたくさんあるんだよね。
すいちゃんも僕も生まれる前──と言ってしまえば、それはもはや「同じ土俵」にあるものだと言っていいだろう。

僕がすいちゃんくらいの年齢(推定)の頃、今にして思えば僕はまだまだへっぽこだったし(今もへっぽこだけど)、でも大学の帰りにタワレコやHMVなどにほぼ毎日寄ってCDを貪るように聴いてたあの頃の吸収力は今につながってると思うし、あれから音楽を全く聴けなかった時期など色々あって今があるわけだし、すいちゃんの可能性のヒントになるのならば僕の半生で得たものすべて差し上げたいくらいの気持ちで、好きな音楽について長々と話している。実に長々と(笑)

配信でも音楽の話題になると僕のコメばかり並んでちょっぴり申し訳無さもありつつ、すいちゃんが興味持って返してくれるのが僕はとても嬉しいし、すいちゃんがすいちゃんの好きな音楽について話してくれる嬉しそうなお顔が好きだし、それをいつまでも見ていたいし聴いていたい。

すいちゃんもまたすいちゃんでピアノなどを学んで育ってきて、僕なんかよりも余程優秀な音楽教育を受けてきたはずだし、今のすいちゃんを構成する音楽たちの一片を知れることは僕にとっても喜びである。

「さよならメモリーズ」───あとで歌詞を読んでみるとそれは(普遍的な)離別した人への想いを綴った歌なのだろう、具体的に言ってしまえば「卒業」をテーマにした歌だとは思ったが───しかし初めて聴いた時の僕の印象としては、それは「離別」というより「死別」だった。
それはやはり「桜」というキーワードがそう連想させてしまう。

桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故なぜって、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。

桜の樹の下には/梶井基次郎

(ネタバレになるが)この曲ではラスサビで告白を果たせてハッピーエンド(?)ともなんとも解釈できる余韻を残しているのも面白い。
力尽き果てたようなギターと共に心象風景がブラックアウトしてしまう、みたいな。
「映画のエンドロールにも似合いそうな、」…ってこれは僕が素晴らしい曲に出会えた時の印象として使いがちな表現だけど、こういうドラマチックな曲が好きなんですね。

理屈っぽいこと言ってしまえば、告白をすることはそこが「ゴール」ではなく、そこが「スタート」なんだと僕は思う。「ジ・エンド」になってしまわぬ限りは。
だけどこの曲のように、ずっとずっと愛しくて切なくて思いを胸に秘めて抱えてきた苦しみから「やっと言えた」ことで解放され、そのギターのように力尽き果ててしまう気持ちも分かる。
そんな日はしっかり#スイ眠 を取って、明日から「始まって」ゆけばいいと僕は思う。

もしかしたら冒頭曲の「終わりへ向かう始まりの歌」ってタイトルのフラグはこの曲で回収された?って思ってみたり。
SKE48に「片想いFinally」という曲があるが、これもやはり告白を成し遂げるというテーマの曲であるが、どこにゴール地点を置き、どこにスタート地点を置くかは、その後も続いてゆく恋路の最果ててようやく気付くのかもしれない。

…なんて「恋の始まり」に胸を昂らせてみたところで、冒頭にも言った通りこれは「卒業」(など)の最後の日の瞬間を描写した歌なんですよ。
もう会うことは無いだろうとお互いに知りながら最後の日に「告白」をしてしまったこと、それによって相手側に元々抱えずに済んでいたかもしれない「未練」のようなものが芽生えてしまったかもしれない。
相手にとっては、その子の気持ちに気づかずに「同級生のまま」でいたことに対して、あるいはその子の気持ちに気づいていながらも自分から「告白」できずにいたいくじのなさに対して、その「後悔」の内容は「聴く者のご想像にお任せする」としておくが、もしも僕がこの歌の「相手」だとしたら「後悔」というか「逆に僕の方が申し訳ない」と思っていたかもしれない。

そしてまたアルバムタイトルにある「Today Is A Beautiful Day」という名の”表題曲”は存在しない。もしかしたらこの「告白」を成し遂げたこの日が「Today」だったのでは?とも思ってみたり。

そしてこの後に続くラスト曲「私へ」で、「当時」のこと、ややもすると「Today」のことを回想しているようにも思える。
──────────
たしかに僕にもそんな「Today」はあったな
などと回想してみる。
いつかの中学の頃あの日告白したあの子、翌日からいい関係になったのだけど、やがて別々のクラスになってちょっと距離が遠くなってしまって、彼女は引っ越すことになり「さよなら」も言えぬままだったなあ…って。
──────────

しかしあれが最後の日だと分かっていながら「告白」した「私」は「正しかった」のだろうか。
相手がその気持ちを知らぬままメモリーズだけを残してお互いが未来へと歩んでいった方が「幸せ」だったのだろうか…「後悔」はきっと自分の中にだけしまっておけばいいのかもしれない。しかし相手もその気持ちに気づいていながら「知らぬふり」をしていたか、もしくは「待っていた」のかもしれないし、言葉に出さずともその気持ちは既に「分かって」いたんじゃないかなって思う。
だから「私へ」に対しては「そんなに深く悩まないで」と励ましたくもなる。
しかし「深く悩む」ことが「今でも相手を想う」ことと表裏一体であるのだと思う。
切なくて苦しくて悩んで眠れない夜もある。
だけどそれって愛おしい夜でもあるんだよね。

なぁーんて言葉が思い浮かんだのは、僕が大好きな曲に「愛しく苦しいこの夜に」というタイトルの歌があることにも起因している。

この曲に関して言えば歌詞よりも先にイントロのディレイギターなどのアレンジがとても好きな曲ってのがあるんだけど、好きな人のことを思い浮かべてこの曲の歌詞を改めて噛みしめてみるととてもキュンキュンしてしまうんですね。

そんな表裏一体の感情は「さよならメモリーズ」でも

「それからの毎日はとても楽しくってだけど同じくらいに辛かったんだ」
と述懐されている。
厳密に言えば「愛しく苦しいこの夜に」に出てくる2人は既に「告白」した後の2人ではあり、その関係性には違いはあるが、そんな関係に成れたとしても「切なくて苦しくて辛い」という感情は抱えていた方がいいと僕は思う。病んでしまわない程度に。
大切なのはバランスだと思うし、と共に、人を好きになった瞬間の身体に電流が走ったような新鮮な気持ちをいつまでも持っていたいと僕は思う。
ドキドキやキュンキュンが、やがて水や空気のような「安らぎ」に変わっていったとしても。

──────────

と、まあ、とりとめもなくとっ散らかってしまったし、僕の好きな音楽をたくさんたれ流してもしまった。

このアルバム「Today Is A Beautiful Day」に話を戻すと、今回のブログはあくまでも”僕にとってのファーストインプレッション”にしかすぎず、今後なんども聴いていくうちにまた新たな発見もあるだろう。
しかしそれはいくらたくさん発見を積み重ねたとしても、それは「正解」ではないだろう。
このアルバムに触れるその時々折々の「Today」の「私へ」、そのたびにまた違ったメッセージをくれることだろう。
僕が大好きで何十年もの間ずっと聴いているBUCK-TICKの楽曲にだって、つい最近僕はまた新しい「発見」をした。
そもそも論で言えば、言葉で語り尽くせないからこそ、「音楽」という表現がある。
という考え方もできる。
すいちゃんも僕もまた違った楽器でそれを表現することもできる。
いつかすいちゃんと同じ楽曲を練習してアンサンブルを奏でてみたい。
という夢も膨らむ。(けっこうガチで)
しかし一方で、言葉を尽くしてその「音楽」の魅力について「好き」を共有することもまた喜びである。

なので、今後もこの「Today Is A Beautiful Day」の新しい発見だったり、supercellの他の楽曲だったり、その他のすいちゃんの好きな音楽だったりについてまた書こうと思っているし、すいちゃんもまたこのブログを読んでくれてリンク先の音楽も聴いてくれたら嬉しい。
しかしきっと、僕が薦めた音楽を聴いたところで、今の時点でピンとこない部分もきっと少なからずあると思う。

何か月後にでも何年後にでも、いつかまた思い出したようにその「言葉」と「音楽」に触れてくれたら、きっとその時またすいちゃんにとっての発見がきっとあると僕は思っている。

いつもの配信の時、まるで挨拶のように「ありがとう」と僕は言うけど、
配信もそう、このブログを読んでくれていることもそう、そのために君の大切な時間を使ってくれてありがとう。ってブログ長くなってごめんねの気持ちもありつつ、すいちゃんが「長い文章読むの楽しい」って言ってくれることも僕は嬉しい。そんな君の優しさに僕は甘えている。甘えさせてほしい。
それでもまだまたきっと「話したい誰かがいる」、その誰かイコール=すいちゃんなんだろうな。
って前回のブログの続きでもある。(笑)

このブログを読んでくれたり僕のおすすめする音楽を聴いてくれたりで、もしもすいちゃんに何か発見があったら配信の時にでもなんでも話してくれたら嬉しいな。

またね。
すいちゃんにとって、今日という日が美しい日でありますように。
おやすい💛

2024.08.04.
Лавочкин(らぼーちきん)

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