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#TOKYOてふてふ 1stアルバム「impure」インプレッション

冒頭に自己紹介じみた昔話をば。
遡ること四年半前、僕は何気無く開いたYouTubeのリンクからぜんぶ君のせいだ。を知り、それをきっかけとして、World End Crisis feat.◎屋しだれ経由でゆくえしれずつれづれを知り、そしてつれづれにどっぷり浸かりながらもコドメンまつりに行けばそれぞれ他のグループに対してもそれぞれに魅力を感じるようになった。
そして今年になってゆくえしれずつれづれは僕の中で永遠に大切な存在となった。そして俗世ではすっかりKAQRIYOTERRORの虜となっている。

つれづれのライブが消失した寂しさと空白の日々を埋めるためでは決してない。KAQRIYOは幽世の頃から好きだったしメンバーのことも好きだ。
そしてそんな現在のメンバーである心鞠游、季、ヤマコマロそしてノア・ロンドの四人にとって、今が最もグループとしての正念場であり、見逃したくないという気持ちがある。
かつて◎屋しだれがつれづれからいなくなり、メイをリーダーとして小町・个喆・たからとゼロから再び歩み出したあの頃を思い出し、重ね合わせちゃったりもしつつ。
そういった意味では、浮あかねが脱退し園ほまれが休養中で、寝こもち・色とわ・天まうるの3人で奮闘中の星歴13夜だって今が正念場である。
そして、路しととして名前も新たに歩き始めた彼女だって今が正念場である。
ってこれはコドモメンタルというレーベルの枠に限った話であり、正念場というものは今も世界のあちらにもこちらにも存在していて、それぞれの正念場でみんな奮闘しているのだ。

かといって僕はコドモメンタルのオタクなんかではない。
って面倒くさい奴でしょ?
きっと今村社長なんかからすれば僕なんて面倒くさい存在だと思うよ。
だけどコドメンの作品に対しては作詞GESSHI類氏で作曲陣がsyvaさんをはじめとするお馴染みの面子という一定の安心感は持っているし、コドメンまつりやツーマンライブなどで知り合えたそれぞれのメンバーに対しても親しみがある。

さて本題。
そんなコドモメンタルから昨年末にデビューしたばかりのTOKYOてふてふの1stアルバムを聴いている。年末の限定試聴を聴いて大晦日の年越し配信ライブでてふてふの歌い踊る姿を観ていたのだが、正直に言って、あと数日後に解散してしまうつれづれの残滓を背負い、それを昇華していく存在であるのかな?と思い浮かべたのが第一印象であり、つれづれの解散をますます無念に思えてしまいそうで苦しかった。
そんなわけで、僕はてふてふのデビューと共に喰い付いたわけではない。むしろ、きっと僕が昔から好きだった音楽に近いところにあるのだろうし、聴けばきっと好きになってそのうちライブなんか行くのかな、そう思えば思うほど今までの自分を否定してしまいそうで、それが怖かった。
このレビューを書きながらMVを何度か観てようやくメンバーの名前と顔をおぼえたところです。

コドモメンタルのオーディションのドアを叩いた彼女達の中にはつれづれに憧れてた人、或いはつれづれの新メンバーになりたいと思ってた人もいたかもしれない。しかしつれづれとは別のグループとしてデビューすることが決まり、自分達にしかないアイデンティティーをゼロから創ってゆきたいと今は思っていることだろう。幽世テロルArchitectとしてデビューした个喆だって当時きっとそういう気持ちだったことだろう。それこそがグループを背負ってゆく者一人一人それぞれの健全な姿だと僕は思う。

しかし一方で、創り手側としてはゆくえしれずつれづれというプロジェクトでやり残したこと、まだまだ創り足りなかったこともあっただろうし、それをてふてふに投影している一面もきっとあるだろうと思う。
もちろんTOKYOてふてふのアイデンティティーを第一に尊重して創っているのは言うまでもないことと思うが、モチーフとして物語の続きを想起させるものがあってもいいと僕は思う。
そしてまた実際にゆくえしれずつれづれを失い、行き場を失った群青たちも少なからず存在している。
そんな彼らを救える存在でありたいと思うこと、それだって健全な在り方だと思うし、そこに愛はあると思うし、それが身代わりや代替物なんかでなくかけがえのない唯一無二のものであればいいと思う。

ではアルバムを聴いてきましょう。

一曲目を飾るのは「innocence soar」。
「夢なのか幻か 解らないまま」と詞世界の帰結を提示して全パートが一斉に絢爛に交響するイントロと共に幕が開くファーストインパクトの曲である。この「innocence soar」はTOKYOてふてふが最初に発表した曲であり、そのタイトルを聞いた時、僕はつれづれのアルバム「paradox soar」を連想した。率直に言って「soar」という言葉はあまり耳に馴染みが無い。しかしそれは主に作詞を手掛けるGESSHI類氏の脳内に流れ続けているテーマであるからだろうし、戦略として群青にひっかかるキーワードを乗せたかったのだろうとも邪推する。

そしてこのinnocence soarでは、つれづれを初めて聴いたときに感じた90's初期のヴィジュアル系のような程良い重厚感の上で疾走感が流れている。この「程良い重厚感」というのが肝心で、近頃のバンドと来たら「重厚感」を追い求めるあまり、5弦ベースはおろか7弦ギターも当たり前のように弾いているのである。アンプだって録音機材だってリスナーの環境も年々進化しているのだから再現できる音域が広がってゆくのはある意味当然な時代の流れである。
しかしてふてふのサウンドの重厚感は「過剰でない」心地良さをわきまえているのである。
ドラムひとつとってみても、ハイハットやタムのワークは実に縦横無尽に炸裂しているだが、しかしそれと相反するようにバスドラではツインペダルやツーバスはほとんど使われていないのだ。

そして歌を聴き進めていくうちにヴォーカルの音域がファルセットでしか出せないところまで上昇し続けてゆくのだ。ギターでいうところの24フレットを更にチョーキングし続けているように。
今はボーカロイドやオートチューンの歌を当たり前のように聴いて育った世代も多いだろう。
かく言う僕自身だって、物心ついた頃にはシンセサイザーサウンドがあって運動会ではYMOのライディーンを踊って育ったので、もっと上の世代からすれば電子楽器さえも奇異なものに映っていることだろう。
そんなジェネレーションギャップはいつの時代にも存在するのだが、やはりボーカロイドというものには慣れないものだ。
そんな感情の上を流れてくるinnocence soarのそのハイトーンなパートは、これが2020年代の音楽であると実感する。そして戦記ものなどのアニソンにも聴こえたりするのだ。
タイトルロゴがシャキーン!と現れ、主要登場人物が一人ずつ計6人くらい出てきてスタッフロールを経て最後はその「正義側」の集合ショットと共に制作会社のロゴマークが。もちろん1分30秒くらいのTVサイズにアレンジされているのである。(妄想)

タイトルに「soar」というワードがあるゆえ、僕が染まりきってたがゆえ、どうしてもこの曲のみならず、てふてふをつれづれと比較文化論的に並べてしまうのだがどうかご容赦願いたい。しかしアルバム一枚通して聴くと「てふてふにはシャウトも無ければスクリームも無い」のである。

そしてまた、てふてふの音源としての作品以外の、ツアーフライヤーやグッズなどのレイアウトやカラートーンだったりフォントのチョイスなどに、つれづれを失った群青の琴線に触れるものを作っていきたいという気持ちが所々に垣間見えるのだが、いかし一方で彼らのシャウトやスクリームを欲する気持ちに対しては拒絶している感すらあるし、そこは決して比べられてほしくないのだろう。その決定的な違いにTOKYOてふてふのアイデンティティーがあるのかな。と思う。
そう考えると、「矛盾や逆説を坩堝に閉じ込めて昇華」した一枚がつれづれの「paradox soar」だとしたら、この「innocence soar」は「天衣無縫の真っ白なベールを空に昇華」した姿という対比も、それぞれのアイデンティティーを守りつつ物語を続けて紡いでいくてふてふの意思なのかもしれない。

ところがである。
タイトルに「soar」とある通り、そこに流れる音楽も加速して高度を上げて昇華していくような高揚感を帯びているのだが、歌詞には「ゆらり堕ちル 逆さ様 まるで飛んでるようだね、」と明確に上昇感を否定しているのが一筋縄ではいかないのだ。
しかしそれは心象風景としてのキャンバスの中にある「上界」と「下界」でしかないのだと思う。見上げる先に「絶望」しかないのならば、下へ下へ「堕ちて」いこう。しかしそれは堕落・退廃ともまた違う、てふてふなりのパラドキシカルなポジティヴ志向なのだと思う。

堕落・退廃を芸術へと昇華させたフランスの「デカダンス」一派の哲学と共通するものが、てふてふには流れている。
TOKYOてふてふのモチーフとなっている「蝶々の翅を身に纏った天使が堕ちる」それを描いた、いわば「Anthem of TOKYOてふてふ」とも言えよう。

そして続くeffect pain spiralは、後述する「phantom pain」と、あの時名古屋で聴いたのはどっちだったっけ?アルバムを聴きながらこれを書いていて戸惑ってしまった。結論から言うと、つれづれの「unison ash」を彷彿させる曲ってこれだったっけ?と、名古屋で聴いてメモまでしてた記憶が迷い始めるのだ。ちょっとハヤシさん。笑
好きなものに夢中になりすぎるところがハヤシさんの持ち味でもある。

イントロからAメロBメロへとドラムとベースが機銃掃射のように連打されてゆく様は一曲めのinnocence soarとは対照的である。そしてそのリズム隊の上に数々のギターと鍵盤がグリッターの粒たちの様に四方に拡がって華々しく彩る。メロディを奏でる日本語詞の後ろでその英語詞が囁かれる場面は、限りなく耽美的に響く。
サビにさしかかりメロディアスに転調すると共に「ファッ!?」と脳裏に記憶がフラッシュバックする場面があるのだが、それが僕の記憶を迷わせるのだ。
そのメロディーはまさしくつれづれの「unison ash」であり、そのアンサーソングではないだろうかという、"それ"なのである。

僕はその「unison ash」を聴いたとき「音楽でこんなに痛みを感じたのはこれが初めてかもしれない。」と書き記した。もしかしたらそんな「unison ash」もライブで観たらまた違った印象を受けて、もしかするとそれが「救いの曲」になるかもしれないという、不安の中に一縷の望みもあった。
しかし僕が行ったつれづれのライブの中でそれが披露されることはなく、「unison ash」の痛みは痛みのまま、僕の消えない痣となっている。

effect~で「病んだこの街で~♪」としゃくり上げて歌うところが、unison~の「薄青の背景も飲み込む街で~♪」と、率直に言って「似ている」のである。歌詞先行型なのか、それともメロディ先行型なのか。とにかくこのメロディにこの「街で」という言葉が気持ちよく乗っかるのは確かである。

そしてまた、つれづれにもてふてふにも共通して流れる世界に、人称のほとんどが「僕」と「君」が中心になっており、その2つの人称で描かれる「主観的」な視点という特徴もある。そのような視界で描かれる「主観」とは対照的に、その地に物理的に固定されている「街」という風景は、二人の主観から突き放されたものとして、感情を帯びていない無機質なものとして聴こえてくるのである。

そんな「街」を彷徨い続ける「僕」と「君」が抱える痛みは、後遺症として今も身体の中で渦巻いているのだ。

前述した通り、僕は初てふてふをKAQRIYOの名古屋で初めて聴いたのだが、その時はてふてふをお目当てで観に来ていた人に曲名を教えてもらいながら"セトリ"を書き記した。その時教えてくれた彼も「この曲は新曲でまだタイトルも分かりません」とのことだったが、そのステージで披露された時の「散らば諸とも仰ぐよ」という伸びやかな歌声が印象に残り、その他に聴き取れる部分やリズムやリフの特徴などを腕に記していたので、あれは間違いなくこのM3のcry more againだったのである。

ドラムと鍵盤のプレイが実に濃密な手数のまま疾走してゆく様は実に圧巻で、M1からこのM3まで譜面に起こしたら音符で真っ黒になりそうな濃密な時間が続く。M2でリズムに変化をつけて攻撃した理由が分かった気がする。
しかしライブではM1のinnocence soarとM3のcry more againを続ける洪水のようなメドレーも聴いてみたいと思う僕はMである。
これはあくまでもアルバムのレビュー(のつもり)だが、改めてYouTubeでMVで確認もしてみると、その伸びやかで倍音も含んだ魅惑の声の主が紫髪のちむら詩文であると分かる。メンバーの中で最も小柄でありながらおそるべしポテンシャルを持っている。しかしまたここで気づかされるのである。
つれづれのメイユイメイ(現:ぜん君。)も、星歴13夜の寝こもちもグループ内で最も小柄だという共通点に。ああ、これは次のコドメンまつりで…ゲホンゲホン、それはお楽しみに取っておこう。

しかしEiseiさんの手がける曲はとにかく広大なキャンバスに描かれた写実主義の絵画のように実に緻密に音が彩られている。実際本人にお会いした時の氏の温厚で知的な印象もあるのだが、楽曲作りにおいて衝動的なものより理性的なものがマトリックスの文字の配列のように膨大な引き出しから溢れ出てくるようで天才肌というか職人気質を感じる。
そして理性的かつ情熱的な演奏が息次ぐ間もなく間奏・Dメロまで疾走しつづけるのだが、ラスサビ前の1小節で刹那に鍵盤を一つだけ叩くアクセントが、ラスサビの疾走感をより際立たせている。

merry-go-roundというタイトルを聞くと「回転する」「繰り返される」などの早急なイメージを想起するのだが曲調はルーズなくらいに落ち着いていて、フロイドローズにEMGなんかでゴリゴリにパワーコードを歪ませるHM/HR由来のアニソンにも連なる精巧なサウンドというより、フェンダー系のナチュラルサンバーストなギターなんかで D# を掻き鳴らし(妄想)、そのバックでベースがオンコードを展開していくという、オルタナティヴ的なアプローチをしていて「異色な」曲ともいえよう。
歌詞から感じるこの曲の描くmerry-go-roundとは、まるでゆっくりと回るカルーセルの様だ。そう、このてふてふの世界は常に早急なスピードで世界が流れている。ゆえにこのカルーセルが昔から速度を変えずに流れる様は、むしろ遅い速度の退屈な日常のようであり、地球が回り続けている様子とも解釈ができる。
そして散弾銃の描かれた絵画の衝動性に非日常の未来を探す様に、ライブという非日常に足を運ぶ自身と重ね合わせたりする。
そこには解放感のあるギターソロが自由を謳歌して鳴り響いている。

そしてrainy milkでも退屈な日常が描写されているのだが、さっきまでとは一転しててふてふの可憐さがフィーチャーされている。というのもシンセの音がとにかくキュートでポップに仕上げられていて、もしかして星歴の世界に迷い込んでしまった?と錯覚を起こす。
この退屈な日常を回す地球を飛び立ち、銀河の彼方に浮遊している気分にもなれる。そういえばmilky wayって天の川だよな。。。
16ビートを刻むスネアのタイトな音にはアルバム全体から見ても統一感が流れているのは、バンドセットでのライブというものを意識してだろう。
この曲はきっとライブではクールダウンポイントとしてもいいアクセントにもなり、それぞれのソロパートもはっきり分かれているので、じっくりステージを観て誰がどこを歌ってるのか分かるようになればますますその魅力を感じられるようになるだろう。
正直言うと6人もいるとまだまだそれが誰なのか聴き取れずにいるのです。それを思うと10人くらいいたのに全員が強烈な個性を放ちながら、絶妙な加減で凸凹しながらグループとしての色を出していた全盛期のモーニング娘。ってすごかったなぁと。でもグループには統一感があった方が美しいというセオリーも一方であるんだけどね、という独り言。

このブログ全部独り言なんですけどね。
またライブ行ってみたいな、もっともっとてふてふのこと知りたいなと好奇心をくすぐられている自分が確かに其処に居るのである。

ところがphantom painで再び一転して、イントロから32分音符のギターから始まり、更にギターが2本3本と重なり一気に緊張感が漲る。このphantom painはKAQRIYOTERRORのCircus NAGOYAの時に聴いていた曲だったはず。その当時はその曲のタイトルも明かされていなかったし、僕もてふてふを生で観たのはそれが初めてだった。
しかしあの日観たとき、高速なビートではあるがまるでタム回しのようなスネアさばきの16ビートという変化球で攻めてくる感じ、ハイハットの刻みも実に変幻自在の精密機器のようで、小室響さんのドラムを生ライブで観たくなる曲だ。

そして「effect pain spiral」の段で言及したように、この曲を名古屋で初めて聴いたとき印象的だったのはサビで転調する感じだったり、2コーラスめのサビから展開する間奏のセッションを聴いてつれづれのunison ashが思い浮かんで「これ絶対ハヤシさんの曲でしょ!」って思わず声が出そうになったほどのインパクトがあった。
あの日物販ブースにいた見慣れぬスタッフさんに声を掛けて挨拶したら、その人はまさかのEiseiさんで、音楽談義に花を咲かせながら「やっぱりさっきのあの曲はハヤシさんのでしたよね?」って話をしてたことを思い出す。
しかしそのタイトルがphantom painと聞くと、やはり僕は「Phantom Kiss」を連想してしまうのですね。もう病気でしょ?

for somethingはイントロではフックを効かせた8ビートから始まりAメロとBメロでタムを回しながらサビでシンコペーションの8ビートに変わって疾走感を加速させる感じがとても気持ちいいし、このアルバムの中ではむしろ少数派にあたる「鍵盤の入っていない曲」である。
ヴォーカルの音域もそれほど高くなく、メンバーそれぞれの声の個性が自然と響き合う感じも気持ちいい。てふてふの他の楽曲では手数の多い鍵盤やドラム、そしてハイトーンなヴォーカルやピロピロした高速ギターも多く、そんなアレンジが張り詰めた感情を音で表現しているのだが、このfor somethingは「自然体な」バンドサウンドとも言えるだろう。大別するとmerry go roundの側にある曲だろう。
以前の僕だったらスピードばかりを追い求めていたところがあったので、この曲は「地味」とすら思っていただろう。しかし魑魅魍魎の絶望の果てを通り過ぎたあとには、こういった「胃に優しい刺激物」を欲するものだ。
そしてこの曲の持つ解放感は、つれづれの「Exodus」にも通づるところがある。僕にとって「Exodus」はあまりにも思い入れの深い曲なので正直あまり引き合いに出したくないのだが、それぞれの曲にある「救いたい」という慈愛に満ちたメッセージ性だったり、その温かみをサウンドからももちろんヴォーカルからも感じられるからだ。

そしてこの曲を聴いていると僕は夜空を思い浮かべる。もちろん歌詞に「夜も暮れ」とあるのだが、「下を向いたまま歩く」という描写に、坂本九の「上を向いて歩こう」へのオマージュを感じるからだ。「涙がこぼれないように」上を向く坂本九に対し、てふてふは「望んだものは ささやかなものなはずで…」と絶望しかかっている様子である。

だがここで先ほど述べたinnocence soarと、蝶々の翅の堕天使を思い出してほしい。その先に希望を求めているからこそ「下を向いて」いるのだろう。
僕個人としてはサビの歌詞の末尾の「空を切る」という言葉の少々巻き舌でカ行を発音してる響きが、その言葉の意味も含めてとても好きだ。ここを聴いてるだけでとても気持ちがいい。

てふてふというグループは1stワンマンから割と大きな規模でしかもバンドセットでライブを経験しており、現在もツアーの真っ最中である。
長い間つれづれの不遇と共に歩んできた僕にとってそれは羨ましいほど恵まれたステージを与えられ、そして選ばれたメンバーたちの踊る姿などを観ていると彼女たちが「即戦力」として選ばれたのだと思う。そしてまたデビューして半年足らずでこのアルバムをリリースできるという様が、僕がさんざん辛苦を共にしてきたそれから比べるとあまりにも「順風満帆」に映ってしまい、それが恨めしくさえも感じられてしまう。

だが、人間は間違い・失敗を繰り返すうちに、間違い・失敗の少ない道を選択できるように学習するのだから、てふてふの堅調さが羨ましくもある。しかしそんな恵まれた境遇ゆえ、メンバー自身が抱えるプレッシャーもひとしおのことと、僕は推測している。
しかしこのfor somethingのような曲の持つグルーヴ感はテクニックだけじゃ表現しづらいものがありむしろ難しい曲だと思うし、この曲をてふてふ自身の体内に流れるものとして自然に表現できるようになれば、ハイトーンなヴォーカルやキレのいいダンスや一糸乱れぬフォーメーションといったテクニカルな評価とはまた違った次元でTOKYOてふてふというグループの奥行きだったり、唯一無二を確立することができるだろうと期待も込めて聴いている。

crossはAメロでのミュートしながらのスネアプレイにカッティングギターがマイナー調でオブリガートしてくる感じは響さんのクールな姿が思い浮かぶし、innocence soarと並ぶ程の高音域のヴォーカルが冴え渡り続ける。間奏後の落ちサビでベース中心になるところとかもう90'sV系のベタ要素をなぞってる様子には清々しささえ感じられて気持ちがいいです。
そこまで妄想するならライブに来なさいよって話だろうし、おっしゃる通りです。
そして全体的にギターよりも鍵盤を前面に押し出す感じに調理されているので、それは90'sのそれとは全くの別物としてサーブされているのはさすがだし、こういった懐かしささえ感じるサウンドを、今の僕は女性ヴォーカルの声の方が気持ちいいと感じられるのですね。
それがアイドルだからとか異性だからとかではなく、女性の声だからこそ相性がいいと思う。
かといってガールズバンドがこういった音楽性を目指すとなると、また「なにか違う」んだよな。

と、ここまでなんだかんだ言いつつも、てふてふの世界に浸って聴いてきたが、ふと、とある欲求というか叶わぬ夢を見てしまうのである。
今ここで流れているこの音楽に、もしもメイユイメイ、まれ・A・小町、个喆、たかりたからの声が乗っかっていたならば、と快楽にも似た痛みが古傷を抉って再発するのだ。
再三言う通り、これはあくまでも僕による極私的で主観的な感想であり、音楽評論だとかいう大それたものでは決してない。

このアルバムの終盤にきて、不覚にも「for something」と「cross」のような曲を、つれづれに欲しかったな…もしもこの曲を彼女たちが歌ったとするならば、どんな風に響き渡っただろう…。

などと、破れし者の夢の跡。

そしてアルバムはいよいよ、doubleでエンディングを迎える。doubleのイントロと頭のサビではドラムがドコドコ鳴り、Aメロでベースの8分弾きがフィーチャーされ、そしてBメロでヴォーカルがStay who you are...と囁いてくる様は、まるで真矢とJとRYUICHIのトリオ芸じゃないか。なんて映像が思い浮かんでしまう。
そしてその「君の苦しみも痛みも抱えて飛べたなら…」と続くポエトリーリーディングは
「By the time I knew. I was born
Reason or quest, not being told
What do I do. What should I take
Words “God Only Knows” won’t work for me
Nothing starts Nothing ends in this city
Exists only sever lonesome and cruel reality
But still search for light
I am the trigger, I choose my final way
Whether I bloom or fall, is up to me」
と言ってるように聴こえる。…って書いたのはLUNA SEA「ROSIER」のJの台詞なんですけどね。
ハヤシさんってば、今の若い子たち知らないだろうって…でも僕は素直にこういうの嬉しくてニヤニヤしてしまうのよ。
っていちいち連想するものまでもが極私的なのだが、今後のライブなどを通して唯一無二のTOKYOてふてふでしかできない音楽として響き渡ってほしい。

かと思えばビバルディの四季の「春」を引用し、張りつめていたその曲が一瞬優雅に舞い踊るのがコドメンの作品にしては意外だった。一般的にパッヘルベルの「カノン」やバッハの「小フーガ ト短調」などは引用されがちなモチーフだが、「春」というのが面白い。
もしかしたら「春」というのは、ちょうどこのリリース時期に合わせて施された演出だったのかな?などと思ってしまう。

このアルバム「impure」は「ベスト盤」と呼ぶにはまだまだ早すぎるが、現在のTOKYOてふてふの全てを詰め込んだ1stアルバムでバンド名を冠するような、コンセプチュアルとは対極にある、四季を通して聴けるてふてふの普遍的な作品になるだろうし、これからてふてふはいくつものステージを経て、夏が過ぎ秋が過ぎ、このdoubleも四季を通してイヤフォンなど身近なオーディオで、そしてライブで様々な景色と共に聴かれる曲になるだろう。
いつかリリース作品を重ねてゆくにつれ、この1stアルバムに触れるとリリースされたこの「春」という季節に開いた花たちの息吹きを振り返られる作品になるだろう。

家でじっくり聴ける環境だとそのアルバムの始まりと終わりを実感できるのだが、通勤電車の途中でだとか利便性を優先した環境に於いてはどうしてもアルバムをリピートして聴きがちで、すぐさまに「innocence soar」が続いて始まってしまうのだが、しかしここではあえてオールリピートを解除して「君に、歩き出す」の残響と余韻を感じてほしい。
改めて歌詞カードを読みながら聴いていると、そこには儚くも散っていった夢の跡だったり、確かに君を愛し続けていたという記憶、そして証。そしてずっとずっと君と追い続けていた光が鮮やかに脳裏に甦ってくるのである。

いつか君に僕が大切にしていたものを渡した時のこと、君は憶えているかな?
君と半分こにすることによって、それと反比例するように幸せは倍になるんだよって。
君の苦しみも痛みも全部僕に預ければいい。
なのに君もまた僕みたいに苦しんだりして。


「ごめんね、ごめんね、もう大丈夫って、僕が君に一番に言うべきだった言葉…」
このフレーズはまるで、最後に君に会ったときの僕の気持ちを赤裸々に描いているようで、なんだか心を見透かされているようで怖くもある。

このブログの冒頭で記していた「僕が描き続けていた物語」をこのdoubleが振り返らせてくれるようで、歌詞と共に聴いていると痛みだけでなく其処に「救われる」気持ちも不思議と湧いてくるのだ。

そしてdoubleの最後の「歩き出す」というフレーズが残響を残してこのアルバム「impure」が締めくくられる様は、君がまた其処から歩き始めた勇気であったり、僕がまた君より一歩先に歩き始めているという、僕の中にある狡猾さであったり、それでもお互いがそれぞれの道を歩いてゆけるのならば、君も僕もきっと幸せになれるよね。君の幸せこそが、僕の幸せなんだ。(回想)

そう思い浮かべているところに「其れだけが 僕の正義」というフレーズが刺さってくる。
名古屋でてふてふを初めて観たとき曲も歌詞も全く知らずに観ていたのだが、その中で楪おうひさんの印象的なシーンのひとつがここだったのを思い出す。

そんなことを今でも君の姿に重ね合わせてしまう僕はきっと「impure=不純」そのものであり、それは君にとって「grotesque promise」だったのかもしれない。今でも後悔と懺悔の気持ちは渦巻いている。
「impure」とは「不純」といういわばネガティヴワードで銘打たれたこのアルバムだが、何故だか最後には「pure」に浄化されたカタルシスが沸いてしまうのである。それはきっと君が「歩き出す」のを僕が感じることができたからでもあるのだろう。

そんな始まりと終わりを象徴するようにこのアルバムの「impure」と「pure」という相反するテーマが、このアルバムのジャケットワークにも現れていると僕は思った。サブスクなどでこのアルバムの音源を入手する人も含めすべてのリスナーが目にするであろうサムネイルにもなっている「表ジャケット」では、てふてふの6人の姿が紗を帯びておぼろげに映っている。しかし歌詞カードではなくプラケースの裏面の「裏ジャケット」には、それと同じポーズの6人の姿がくっきりと映っている。まるでこのアルバムを最後まで聴くと、聴く者の心象風景の「靄(もや)」が晴れたかのように、

「浄化」されるのである。

コンパクトディスクというパッケージにこだわり続けるコドモメンタルらしさが脈々と流れている。

たとえもしいつか世界でサイバー戦争が起きたとしたら世界中の配信サービスはたちまちダウンしてしまい、それを主に聴いている携帯端末にあるデータも呆気なく消失してしまう可能性だってある。このデジタルな世界は実は脆弱なのではないかと今は妄想している。

しかしこのコンパクトディスクというマテリアル(厳密に言えばこのディスクだってデジタル配列の集合体ではある)が手元にあれば、いつの時代にいてもその音楽に触れることが出来る安心感がある。ミュージシャンは音だけを作っていればいいという考え方も確かにあるが、それを演じる者、ライブを演出する者、歌詞カードをレイアウトする者、それに携わる人たち全ての結晶が作品として、聴覚だけでなく五感に訴えるものであってほしい。
90'sのいわゆるヴィジュアル系と呼ばれる(うちの初期)を通過してきた者の残滓として、いつまでもそう願う。
冒頭ではこのアルバムというかTOKYOてふてふが「2020年代の音楽である」と書いたが、しかしそんな残滓が音楽というものに初めてときめきを感じたあの頃のような懐かしさと、新陳代謝しながら今を生きることの新鮮さを感じることができた。

御馳走様でした。

「無人島に持っていきたい一枚」という言葉がこの先のデジタルでヴァーチャルな世界がエスカレートしていったとしても、それが死語にならぬよう、後世まで残しておきたい普遍的で刺激的な音楽のうちの一枚になってほしい。

2021.05.12
Лавочкин(らぼーちきん)

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