#KARIYOTERROR 「#ReaperFeeder」極私的レビュー
2022年7月27日発売のアルバム「Ensemble Berserk」からおよそ4ヶ月ぶりの11月30日リリースの…とはいうものの、その間にいわゆる”アルバムを引っ提げたツアー”である「GUERRILLA DIMENSION TOUR」を8都市9公演そして渋谷ミルキーウェイで追加の”裏ファイナル”も行い10公演を敢行したのだが、僕はそれほど多く参戦できなかったし、対バンサイズのセトリゆえ、アルバムの全曲をライブで堪能したという実感は身体に馴染まずのままだった。
弊ブログで「憐憫パントマイム」のレビューを書いた頃は我ながら仕事で心身ともにすさんでいたように思える。
そういうときにこそ心に沁み入る音楽というものも確かにあるが、やはり健全な心身に、真っ直ぐに音楽が沁み入ってって欲しいと思う。
幸いにして僕自身のしんどさのピークは過ぎたようで、あの当時よりも落ち着いて音楽が聴けている気がする。
さて、まずReaper feederという聞き慣れない言葉が飛び込んできて、その意味を辞書で引くところから始まった。
Reaperとは「刈り取る者」すなわち「鎌を持つ者」転じて「死神」という意味もある。ジャケ写や歌詞を見てもそれは「死神」と言って間違い無いだろう。
今回の新曲のキーワードである「死神」そしてジャケットワークで描かれる衣装を身に纏った4人の世界観。それはハロウィンやドラキュラやアダムスファミリーとも近い、いわば西洋に伝わる風習がモチーフになっている。
幽世テロルArchitectの頃は、「いろはにコラージュ」というティーザー的な曲から豹変して「かごめかごめ」から始まり「ユビキリゲンマン」など、日本古来に伝わる風習をモチーフとしてきたのだが、それらと「Reaper feeder」が対照的なのが面白い。
KAQRIYOTERRORと”横文字”に変わりつつ、幽世の結成時メンバーであるのなめらが再加入し、今度はタイトルも「Reaper feeder」と”横文字文化圏”の「童歌(わらべうた)」で、原点回帰しようという試みでもあるのかな?って思った。
となると、その他にハロウィンだったりイースターだったり、宗教や因習も絡んで西洋で古くから言い伝えられている風習を発掘し、それをモチーフとしてシリーズ化していくのもまた面白い展開かもしれない。
西洋のみならず、世界の奇祭を探していくと面白いだろう。そもそも「幽世テロルArchitect」というグループ名には漢字とカタカナとAlphabetが混在していたのだし、結成当初からそう言ったワールドワイドなビジョンやMixture精神もあったはずだ。
そして「feeder」とは「餌をやる者」すなわち「飼い慣らす者」。つまり「Reaper feeder」とは「死神を飼い慣らす者」と言っていい。
しかしジャケットに描かれているのは黒いマントに身を包んだ四人の「死神」、すなわち「Reeper」であり游ちゃんの手に鎌を携えていることからもそれが見て取れるだろう。
──となると、彼女たちを「飼いならす者」とは一体誰なのだろう?
それは彼女たちを踊らせている「歌」であり、KAQRIYOTERRORという概念そのものを「Reaper feeder」に准えて詞世界を繰り広げているのではないだろうか。
「歌に飼い慣らされている」と言うと語弊があるかもしれないが。
一般論になるが、とある物語について語る歌も多く存在し、巷に溢れるいわゆるラブソングとは誰かの恋愛を物語にしてそこへ共感や憧れなどを喚び妄想の世界へ誘うものも多い。
ところがKAQRIYOTERRORの歌に関しては、その物語の主人公がKAQRIYO自身あるいはYOMIBIYO自身に直接置き換え、自ら自悶自答したり自らを鼓舞するものが多い。つまりストーリーというよりもドキュメンタリー的なものが通奏されているように思えるのだ。
たとえばホールやドームなどでのコンサートで豆粒大のアーティストを観ながらその歌に共感する距離感、そこにはアーティストと観客の間に観客のイマジナリーが抽象的媒介として宙に浮かんでいるようなイメージ。
もう一方、小さなライブハウスで直接声と声をぶつけ合え、肉眼でお互いの光る汗の粒まで見える距離のライブでは観客のイマジナリーはアーティストに直接届いたりする、フィジカルな関係と言ってもいいだろう。
武道館やドームなどでコンサートを観に行ったときのことを思い出す。席についてこれからコンサートを待ちわびるとき、あるいはコンサート後の余韻に浸り席を立つまでの間、そこの天井に吊るされている日の丸の国旗だったり、網の目に張り巡られている天井を眺めたりするだろう。
ところがライブハウスとなると、そこへ来た観客がライブハウスの天井を眺めることはあまり無い。「あ、ミラーボールあるな」くらいは気づくだろうけど、天を仰ぐように天井を眺めて耽るといった経験は殆ど無い。
この距離感の違いが目線の違いとなり、イマジナリーの置き方の違いとなって顕れるのだろうと僕は思う。
或いは、大箱でリバーブといった空間系の残響の在り処を聴覚で体感していると、それに連られるように視覚情報としての残響といった、本来見えるはずのないものまで無意識下で探しているのかもしれない。
よってコドメンのアーティストの楽曲の多くは、音源制作と並行しているライブ活動の状況からして、その後者の距離感を想定して描かれる歌詞が多いと思う。
ところが先日リリースされたぜんぶ君のせいだ。のアルバム「メイダイシンギ」の楽曲には、その後者のみならず前者──すなわちホール・ドーム級のような距離感・スケール感で描いた作品も少なからずあった印象を受けた。
それはきっと武道館という場所で「共感」を生み出されるように意識して作詞した部分もあったのだろう、と思う。
「君」と「僕」という主語と主語がぶつかり合う距離感で描きつつも。
さて、待ちに待ったCDはフラゲ日前の配信で注文していたのだが、結局発売日に渋谷ヴィレッジヴァンガードで行われたリリースイベントで直接に現物を手に入れたのが「Reaper feeder」との出会いだった。
そのリリイベのおよそ19時間前にはサブスクリプションも解禁されていたのだが。
しかしやはりこうして歌詞カードのついたCDを開封する時のわくわく感には代え難いものがある。
CDに付属している「帯」にはキャッチコピーが踊っている。
そしてそのキャッチコピーは、その表題曲の歌詞に通奏されているメッセージを、メロディに合わせて文字数を揃えると言ったいわゆる「定型詩」から解放された「散文詩」によって綴られていることが多い。それはゆくえしれずつれづれの初期の頃から、言ってみればコドモメンタル発足時からのCD作品の伝統と言ってもいい。
店頭でCDを手に取り、まだそのメロディを聴いたことが無い人に訴えかけるには「定型詩」よりも「散文詩」の方がいいのだろう。
そしてそのぜん君の「メイダイシンギ」と、KAQRIYOの本作「Reaper feeder」に僕はとある共通項を見つけた。
それについては後述することにしよう。
そんなタイトルと先行して解禁されたジャケ写の雰囲気から、先作アルバム「Ensemble Berserk」的な激しいものを期待していた。
しかしその期待は見事に裏切られた…
「いい意味で裏切られた」と言うには少しタイムラグが必要だったし、「いい意味で裏切られた」という言葉を咄嗟について讃えてしまうのは却って軽率であり軽薄かもしれない。
正直しばしの間戸惑った。
イントロから16分(音符)のシンセベースが2度ずつ高くコード進行し、そこへハイハットが裏拍で重なる様が、小島よしおが「へたこいた〜!」瞬間に流れるSE「hype 'o' tek」を彷彿とさせたりして高揚感を掻き立てる。
このリズムパターンはある意味EDMの定番の一つとも言えるし、これを以て「小島よしおだ」と断定してしまうのは、灰色の艦船をすべて「戦艦」と呼んだり日の丸の標章が描かれたプロペラ単翼機をすべて「ゼロ戦」と呼んでしまうのに近い。軍艦も軍用機も実に多種にわたるのと同様に音楽も実に多岐にわたる。しかしKAQRIYOの歌は小島よしおとは少なからずの因縁があるので(笑)、ここは「大島よしお」としておこう。
「児島だよ!」
おやおや違う人が出てきた。
このあとどうやってディストーションギター入るのかな?などと、Ensemble Berserkの続きの気分でいると見事にそれは覆された。
最初に「Reaper feeder」を観たのは配信越しだったが、うかうかしているとリズムを見失いそうなる。実際追ってみると単なる8/8ではなく8/7や8/6も織り交ぜている。しかしそこはメロディと振り付けでしっかり強調してあって初見さんでも2コーラスめではついてゆけるんじゃないかと思う。とは言いつつもベースをコピーしてみてやっぱりリズム取りが難しかった。
歌唱パートはのなめらから始まって游テャン→ロンド→RЯと、パブリックイメージのフローチャートのベクトルがCuteからCoolへとバトンを渡しながらクロスフェードしてゆく感じが印象的で、Ensemble BerserkではRЯがハード面をリードしてたのと対照的で、KAQRIYOTERRORの振り幅の豊かさと彼女たちがコンセプトに掲げてきた「禁忌がTABOO」とは本来こういうことなのかなと改めて気付かされたり。ArchitectではなくTERRORになってからこういうの初めて?って思ったが「うすうす」からのメドレーで聴いても違和感無いと思う。
のなめらはのなめら全開で突き進み、游テャンは「心鞠游ですが何か?」と言いたげな「おすまし」な雰囲気を漂わせ、ロンドはブレスなどでフゥ~といった游テャンに連られる感じを演出しつつほんの少し照れくささが残ってるところが却ってかわいい。
「すべからく」という言葉がこんなにキュートに鳴ったのは僕の生涯でこれが初めてだろう。
作詞したGESSHI類氏もこの「須く(すべからく)」という言葉がメロディーに乗った瞬間、作詞者冥利というものを実感したであろう。
GESSHI類氏の歌詞には、この「須く(すべからく)」のように、フレーズが頭にひらめいて「降りてきた」瞬間がところどころに感じられる。
詞世界のストーリーの肝となるキーワードとは別の、言葉の響きで以てメロディーを一層引き立てるスパイスのような魔法の粉のようなものを。
KAQRIYOの楽曲は他のグループの楽曲に比べて、歌詞というよりもリリックと呼んだほうがしっくりくるような、たとえば韻を踏んだりメロディや響きに重きを置いたものが多い、故に日常生活で出てこないフレーズだったりが突然出てくる。そこがKAQRIYOの持ち味だと思う。
そしてRЯはハロウィンの仮装のように別人格を憑依させたようにブリブリのブリっ子ちゃんで歌ってるのが、「でもありゃちゃんちょっと息苦しくない?」「そうなの苦しいの…」と訴えかけてるようで、そこがまたチャーミングに聴こえる。
でもロンドにもRЯにも少なからずキュートな一面があると僕は思ってるし、それをチラリズムさせることこそが彼女の魅力だと思っている。
作曲が水谷和樹さんであるということもhmvのWEBサイトで前情報として知ってしまっていたので、それを「CDを開封するときの楽しみにしてて」と釘を刺していたロンドちゃんには申し訳無いが、お先に期待膨らませていたよ。
水谷さんがKAQRIYOに楽曲提供するのは、Human flyではtrackがcyberMINKさんで水谷さんは作曲のみ。厳密に言えばアレンジも含めて総合的に手掛けてくれたのは意外にもこれが初めてになるけれど、水谷さんは(ゆくえしれず)つれづれのポストカタストロフやLoud Asymmetryなども手掛けていたので、所謂そっち系の楽曲に対しても安心して期待できる。ところが蓋を開けてみたら、そっちよりもむしろ星歴に近い方で攻めてきた。僕の中のしばしの戸惑いは、この印象に起因したと言ってもいいだろう。
しかしそこにはnonameraとしてソロ活動も並行しているのなめらが培ってきたものだったり、TERRORに生まれ変わってからの”KAQRIYOTERRORらしさ”というのは言葉で表現するのも難しいし、彼女たち自身がライブパフォーマンスとしてそれを体現することも一朝一夕ではできないことだ。
──現体制になっておよそ半年、思い返せばそのライブの殆どは対バンサイズであり、対バン相手のファンの反応も考慮しながら披露できる曲は限られてきた。そんな状況にあって未だ披露されてない曲もいくつもある。しかしアルバム「Ensemble Berserk」と本シングル「Reaper feeder」のリリースによって「役者は揃った」感が醸成されたと思う。
とは言いつつも、そろそろ制式な衣装が欲しいとも思うし、あの子の帰りを待っている気持ちもある。
しかし游テャンとロンド二人になって、それでもその燃える炎を絶やすことなく走り続けると決心したあの日の気持ち──
──しかしあれから程なくして、幽世テロルArchitect結成時からその強すぎる個性で幽世を彩ってきたオリジナルメンバーのなめらと、新人と呼ぶには余りにも心強いRЯが加わり、それはまさに電撃的な急展開を見せ、まさにBerserkモードで進撃を続けているのだが、しかしそれでも游テャンは近頃「強い心」とプロフィールにも記していて、今もなお臥薪嘗胆の日々であることは否定できない。
ぶっちゃけ言うと、そろそろ僕も平日の対バンばかりにはうんざりしている。ぶっちゃけ。
それまでのコドモメンタルといえば対外的な対バンをあえて避けるようにガラパゴス的に発展してきて、それがコドメンの持ち味でもあった。
しかし対バンを通じて"井の中の蛙"から脱却して大海を知るようになることも大切だと考えるようになり、いわゆる外部のアーティストさんに作曲を依頼するようにもなり、楽曲の幅も広がったことは歓迎すべきことだと僕は思う。
しかしそろそろワンマンライブそしてワンマンツアーのKAQRIYOTERRORを観たいし、そしてまたそこへ行けずな日々が続いてしまっている僕自身にも嫌気が差してくる。
そしてその穴埋めを配信でするといったお茶を濁すようなルーティンも、アーティストの本分ではないと僕は思う。
僕が勝手にそう思ってるだけなので責めるならどうぞ僕を責めてください。
しかしこうして素敵な新曲を書き下ろしてもらってアルバム、シングルをリリースできることには感謝しているし、いずれのジャケットのアートワークも凝っていてかっこいい。そのことに関してはKAQRIYOTERRORもYOMIBITOも胸を張って誇っていいと僕は思う。
今はまだ時期尚早だとは思っているけど、僕の一番大好きな曲「カクリヨ奇想曲」が、本当の意味で心に沁みるようなライブを魅せてくれる日を僕は必ず待っている。しかし「カクリヨ奇想曲」は平日の対バンで不意打ちに披露してしまうような曲ではないと思っているし、セトリを組んでいるスタッフさんのこともその辺は信頼しているので、どうかいつか必ずその日まで。
さて、そのジャケットのアートワークだが、ぜんぶ君のせいだ。のアルバム「メイダイシンギ」との共通項、先ほど少し言及したことの続きを。
ふと、このリリースの2週間だけ違う2つのCDを並べてみて、赤系のパープルで靄のかかった「メイダイシンギ」と青系のパープルで覆われた「Reaper feeder」、味わいの異なる葡萄酒が2つ並んでるような近似したカラートーンを両作品に感じたし、それぞれのタイトルロゴも「メイダイシンギ」はカタカナの背後に漢字が、「Reaper feeder」のタイトルはInpactフォントだろうか、太ゴシック系の背後に斜体の筆記体がそれぞれレイヤードされていて、同じデザイナーによる同時期の作品であることが推測される。
クレジットを見るとどちらも「U sucg:) (Made In Me.)」と記してあった。
その「メイダイシンギ」で描かれている、見渡す限りの焼け野原はやがて砂漠へと風化しているのだが、その砂漠の彼方を眺めてみると、丘稜線の狭間にぼんやりと浮かぶ摩天楼。この構図は映画「猿の惑星」のパッケージに描かれた「ひょっとしてここ地球だったの!?」という盛大なネタバレともどこか似ている。
そしてもう一方、「Reaper feeder」の裏ジャケット(プラケースの内部)で描かれる「街は皆 道化師」の街並みが、「メイダイシンギ」の裏ジャケットに描かれている遥か彼方の摩天楼に似ている。
「メイダイシンギ」の方が一足お先にリリースされたが、その街の色彩をネガ反転させて左右反転させると実にそっくりな街並みなのである。
と言ってもそれは、自撮りショットでよく見かけるinカメラ設定の鏡反転なのではない。しかし高層ビル群のシルエットが似ている。
併せてぜん君の「メイダイシンギ」も聴いてそちらの弊レビューも読んでいただければ光栄だが、
この「Reaper feeder」の裏ジャケットで描かれているのは、もしかしたらこれは反転や鏡写しというよりも、摩天楼の裏側から見える月夜空なのではないだろうか?
いや、この上弦の月に見えるこれはもしかしたら月ではなく、「メイダイシンギ」の盤面に描かれている惑星、あるいは生命の誕生、はたまたアイスクリームの球体なのだろうか?
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」
とはニーチェの言葉だが、僕らが現世にいるつもりで「真偽」を確かめるべく「命題」として深淵を覗こうとしていると、その深淵の向こうから、死神たちが僕らを覗いているという景色なのかもしれない。
つまりその深淵の先にあるのは「黄泉の国」と解釈することもできるのではないだろうか?
そしてこの「街は皆 道化師(ピエロと読む)」フレーズが印象的だ。
ここで連想するのは頭脳警察の「コミック雑誌なんか要らない」という歌にある「俺のまわりはピエロばかり」というフレーズだ。
この「コミック雑誌なんか要らない」は内田裕也によってもカバーされ、内田裕也が脚本を手掛け内田自らが主演する映画にもなった。あのシェケナベイベーの人である。彼は晩年白髪の長髪になりまるで「死神」のような風貌になったが、これは偶然というかこじつけだろう。(笑)
サビの歌詞にある「逃げ続けてく?理想方舟?」の「方舟」は「かたぶね」ではなく「はこぶね」と読む。これは「箱(ハコ)」と呼ばれるライブハウスのメタファーなのかな?って思った。この後に出てくる「リトル箱庭」の方が直接的比喩かもしれない。
そして「方舟」といえば「ノアの方舟」も連想する。
このままノアに身を委ねて、どこか遠くまで流れてゆきたい。
「そこで見るだけ?リトル箱庭」はすなわち、この昨今における対バンライブで、他のグループを目当てに観に来た人たちに向けてのメッセージと僕は解釈した。
「興味ないフリ もう居ない推し
本当は好きでしょ 素直になり」
と、「こっちの水も美味しいはずよ」と黄泉の国へといざなう「鬼乃狗摩音頭」とも世界がつながっているのだと思った。
かく言う僕も、ゆくえしれずつれづれとの対バンで、こんな幽世テロルArchitect/KAQRIYOTERRORを観るようになり、次第に惹かれるようになっていき、現在に至る。
そしてまたTOKYOてふてふのライブを観たのもKAQRIYOのCircusにオープニングアクトとして出演してたライブが初めてだった。
対バンばかりが続いていることを正直僕は嘆いたりもしている。
しかしそんな境遇から生まれる一期一会を大切にして、掴んだものは離さずにいてほしい。
僕の腕もぎゅっと掴んで、そして飼い慣らしていてほしい。
──────
c/wに収録された「アイデンティティークライシスFF Ver.」は2018年10月のミニアルバムのオリジナル盤、2020年の再録アルバム「Cultural Mixture」収録の2020ver.そして今回FF Ver.の3度目の音源化になるが、その3種すべてに参加しているメンバーがいないというのが因果だなぁと思う。
そしてFF Ver.の「FF」とはなんぞや!?
と気になって周りのYOMIBITOさんとも「あれ何の略なんだろうね?」と話し合う時間もまた楽しい。
一般的にFFといえばFinal Fantasyと連想する人が多いようだ。でも僕はいわゆるオタク文化にはてんで疎いのであって、たしかにそれは有名なゲームだということくらいは知っているが、それよりもFront-engine Front-driveという自動車の駆動方式を連想するのだ。
他にFといえば「FxxK」という、まさに”F-word”とも称されるものもあり確かにKAQRIYOとも親和性が高い。
最近久しぶりに聴いたProdigyの曲に「Fuel My Fire」なんてのもあったりして、あとMEGAEDTHの曲で「FFF」というのもある。これもスピーディでかっこいい曲なのだが、ここでFFFとは「Fight For Freedom」と歌われている。
さらに翻ってみると、KAQRIYOでは「Avant-gardE 4COLOR Hyper Video2 REMIX」というライブ先行予約特典として配布されたRemixを思い出したりして、そうかFとは「Four」の略でもあるかもしれない…ってことはFour Friends,For Fruit…あれこれ当てはめながら甘酸っぱい果実のあの子のことなんかを思い浮かべていると、隣りにいたYOMIBITOさんが「FourもFだけどFiveもFですね!」「Five?! それ面白い解釈だね!!」なんて妄想を広げてみたりして。
メンバー自身も再録する際にこのFFについては事つぶさには聞いてなかったようで僕の思い過ごしだったかもしれない。
たかがタイトル、されどタイトル、GESSHI類氏の歌詞にはダブルミーニングや時にトリプルミーニングなどもあったりするから、メンバー自身もYOMIBITOも共に想像力を働かせて楽曲を楽しむのがいいと僕は思う。
初めて聴くアイデンティティー〜のinstrmentalにも驚いた。リズムパターンもベースラインもセクションによって展開していくのだが、メインで聴こえるブラス系ノコギリ波シンセのフレーズは転調もせずに一曲通してリフレインされているのだ。今までずっと聴いてきて僕はこの曲をデジロック的に解釈していたのだが改めて聴いてみてヒップホップのループの要素もあったんだなと。
歌詞もメッセージ性も織り交ぜながら韻を踏むことをかなり意識した、歌詞というよりもリリックと呼んだ方が相応しく、そこからもヒップホップを意識したものと言っていいだろう。いわゆるAメロ(Verse)に関してはリズムそのものもヒップホップ的だから尚更のこと。
しかしそこへセクションごとに異なるメロディーで展開してJ-POP的にMixtureして昇華させているのが、いわゆるアイドル曲の特権だと思う。
アイドルは音楽の系譜からすれば邪道である。
しかし邪道であるが故に自由であると。
しかし聴き比べてみると2018のオリジナル盤のヴォーカルにはAuto-Tuneでエフェクトが施され(いわゆるPerfume声)ていたが、しかし徐々にその"肉"を削ぎ落としてライブ感の高いものに進化していると感じた。
こうして生まれ変わったヴォーカルで、ひときわ耳を惹きつけたのはロンドの歌唱だった。
trigger atqの頃から飛躍的に艶っぽさが増した(と僕が思う)ロンドの声がCultural Mixtureのそれとは大きく異なる印象を受けた────
エフェクターにたとえるならば旧来ドライ寄りだった声のトーンがウェット寄りに変わってきたこと。
しかしそれは変化ではあるが、未知との遭遇のような驚きというよりも、昨今ライブで聴いてきている感覚を喚び起こす"ノア・ロンドの現在進行形の姿であり、「生々しいもの」として鮮やかに再生されるのだ。
アイデンティティ~のイントロが流れるとロンドがフロアを煽るという最近の定番の流れがパブロフの犬の如し条件反射的に脳内再生されるし、今日のライブのロンドはいつになくビブラート効かせてノリノリだなぁと思った日のライブのノア・ロンドをそのままパッケージングしたような生々しさを。
ハイレンジに響く游テャンの声とそこに遊星のように飛び回り絡みつくのなめらとのEnsembleはクライシス感を際立たせているし、ボトムを主に支えるRЯの歌声が2018年のミニアルバム収録当時の聖涙丸からヤマコマロへと受け継がれた色合いを受け継いでいるようにも聴こえる。
受け継ぐと言えば、今回「センパイ」から「パイセン」へと変わった部分の「カクカク」の”タチ”もRЯへと受け継がれているのだが───
かつて「宝島」という雑誌に「VOW」という読者が変な看板や誤植などを投稿するコーナーがあった。そこに怪しげな雰囲気で密着してる写真が投稿されると、漫画家のみうらじゅんがこうコメントするのが定番だった。
「これ絶対入ってるよね」
そしてその「カクカク」だが、擬音の元ネタはマンガ「激烈バカ」ではないかと僕は思う。かれこれ20年くらい前のマンガだが。
そんなRЯだが、Ensemble BerserkやReaper feederでRЯの個性を存分に発揮したようにアイデンティティ〜でももっと冒険すればいいのに。○○ver.と謳うからにはMixもアレンジも変えてしまったら面白いのに。
という気持ちもある。
しかしそこは進化し続けてもあの子がいつでも帰ってこられるように、幽世テロルArchitectから脈々と続いている「KAQRIYOTERRORらしさ」、すなわちKAQRIYOTERRORとしてのアイデンティティーを危機から守り抜くという彼女たちの意志を、このFFver.から感じられたし、以前のver.ではメンバー毎にパートを5分割していたが現在のKAQRIYOTERRORはメンバー全員一人一人が主役、でありながらお互いを殺し合わない絶妙なバランスで四重奏を鳴らしているように感じた。
アイデンティティークライシスは曲の冒頭で「何処もかしこも猿真似の闘争」などと、辺り構わずシーンを蹴散らせ反骨精神をむき出しにし、「KAQRIYOこそ変態」とアンチヒロインである己を讃えているようなアティテュードは、自らを「紛いもんです」と卑下する「Like a Fake」にも通づるところがあるし、そんなLike a Fakeやこのアイデンティティークライシスを好きだと言っていたロンドに僕がシンパシーを抱く理由のうちのひとつでもある。
そして「アイデンティティー~」で「ドヤの顔して踏む文脈も」と、軽薄にRhymeを踏むシーンをDisってるフレーズもあるが、「Reaper feeder」では「語尾合わせ風 受け流す」といった具合に、脈々としたアティテュードを1枚のシングルに詰め込んであるところにもKARIYOTERRORの意志を感じたりするのである。
先ほども述べたような、平日に対バンばかりという「臥薪嘗胆」の日々、不安募る日々がこの先もしばらく続いていきそうな、そんな今だからこそKAQRIYOのKAQRIYOらしさ、すなわち「KAQRIYOTERRORとしてのアイデンティティー」というものを胸に、「意志に君 × 壱の危機」から守り続け、「君に届くまで泣き続け」、いつか「きっと光の先に君がいるからで、でしょ」と笑い合い泣き合える日が再び訪れることを願って、今シングルのc/w曲にこの「アイデンティティークライシス」が抜擢されたのではないだろうかと思った。今この時期だからこそ。
そして僕も同じように、君と笑い合い泣き合える日を、
そんな未来を見据え、希望し渇望しているのである。
20221219
Лавочкин (らぼーちきん)
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