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長い時間をかけてぐずぐずとする

※エッセイストの紫原明子さん主宰「もぐら会」の添削コース「書くことコース」で書いた原稿です。

いまどきはなんでも便利になって、納骨もインターネットの申込フォームから予約できる。

この春の京都行は、大切な用向きがあった。ずっと長いあいだ自宅におかれたままだった死産した子のお骨を、京都のお寺におさめに行くこと。育っていれば今ごろ中学生にもなっていた3人めの子は、妊娠5ヶ月にしておなかの中で息を引き取っていたため流産ではなく死産扱いとなり、火葬ののち小さなお骨が手元に残った。

もともとは東北にある夫の実家のお墓におさめようかと思案していたのだが、ある日大きな地震と津波が来てお墓どころじゃなくなってしまった。そのうち夫と別居することになって、縁のなくなるかもしれない遠い場所にいかせるのはいやだなと思うようになる。考えあぐねて時が経ち、わたし自身の実家にゆかりのある京都の寺に納骨できることを知った。それがいいそうしようと決めたものの、こんどはコロナ禍が訪れたり、ねこが病気したり、はたまた旅行の予約までしたのに自分がコロナに罹ったりして、実行を諦めざるをえないことが何度か続いていたのだ。今回こそは。固い決意をもって日程を決め、お寺のサイトの予約申し込みフォームに一つひとつ必要事項を記入していく。

納骨予約だけに、フォームの項目も独特だ。一行目が「法名」。二行目が「俗名」である。あの子には法名どころか名前もまだなくて、ちょっとだけ考えて名前の欄に「苗」と書き入れた。まだとても小さいまま旅立ってしまったけど、でもしっかり命を形づくっていたから。とてもかわいらしくて、あの子によく合う名前だと思った。

それにしても今回の旅は、これまでわたしを阻んできた困難はなんだったのかというくらい、すべてが首尾よく運んだ。旅に出る直前に、ぜひ訪れたいと思う場所の情報が次々と飛び込んでくる。前日になって宿泊を増やすことにしようと決めて探したら、四つ星ホテルが8000円で部屋を貸し出しているのを見つけすかさず予約する。行ってみたら部屋はダブルのシングルユースですこぶる快適。次の日は早起きしてみると大雨だったが、行き先はよい造りの喫茶店や図書室だったので雨音も濡れた新緑もぴったりの借景となってくれた。翌朝はうってかわって雨はすっきりとやみ、屋外での祖廟への納骨も、とても心地よい空気の中でおこなわれた。

わが子への愛おしさも失った悲しみも消えることはないけれど、もうとっくに魂は空に帰っているのに小さな実体のかけらだけをいつまでも引き止めておくのはいいことではない、とわかっていた。はじめのうちこそ寂しいからまだそばに添っていたいという思いがあったものの、しだいに日常に取り紛れて「ただうちに置いたまま」の状態がさしたる理由もなく長引いていく。いろいろ事情はあったにしろ延ばし延ばしにしてきたことに、ずっと申し訳なく後ろめたい気持ちでいた。でも、5月の雨に一度なにもかもが洗い流されたようなひんやりと涼しい朝、小さな骨壷を抱えてお寺の美しい庭に立っていると、ああ今日がちょうどよかったんだな、と思った。おそらく、ものごとにはそれなりの時機というものがあるのだ。わたしはこの春、いろいろなことに終いをつけることになった。ずいぶん長く時間がかかったとも思うが、長い時間をかけてぐずぐずとしなければ、結局ここまで来られなかったのだ。

骨壷を祖廟の壇にそっとおいて手を合わせる。僧侶が唱えるお経の声は、雲の隙間にちょうどのぞいた青空に向かってのぼっていく。ずっと引き止めててわるかったね、気持ちのいい朝でよかったね、と声をかけて、あの子をやっと送り出せた、と思った。


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