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ひとをそだてる

子育ては本当に難しい。


私は子供が1歳になって言葉を話すようになるまで常に追い詰められていた。
夫は育児にも家事にも協力的だったが、それでも夫の居ない時間が本当に辛かったのは、自分で自分をどんどん追い詰めていたからである。

そうなってしまった背景として考えられるのは、まず私と実の親との間に信頼関係がないこと、私に自信が無いこと、それから私が真面目すぎることだ。

親との関係が悪化した経緯についてはまたいつか書くとして、とにかく自分と親のような関係の親子には絶対になりたくなかった。
されて嫌だったことはいろいろ覚えているしそれを自分がやらないようにするのは出来るだろう。
でも「自分がもらってないものは子供にあげられない」というのをどこかで読んだ。自分がされて嬉しかったこと、親との信頼関係、愛されているという実感、そういうものが自分の中に欠けていて、それでもそれを子供にあげられるだろうかと常に不安があった。

真面目だった私は「失敗したくない」という気持ちがとても強かった。
「子育てには正解が無い」とよく言われる。それは正しいだろう。
でも子育ての失敗はあると思っていて、そうなることが本当に怖かった。
何しろ自信がないのだから。

で、どうしたか。

私はベストを尽くそうと思っていた。可能な限り子供にとって最良の親で居ようと思った。常に子供に”やらなければいけないこと”、”やったほうがいいこと”、”やってはいけないこと”、”やらないほうがいいこと”をずっと考えていた。

例えば子供が機嫌良く寝転がっていても、「放っておいてはいけない」と思い、全く反応の無い子供に向かっておもちゃであやしたり絵本を読み聞かせたり話しかけたりしていた。どこかに出かけるときは絵本や折り紙やパズルなどを常に持ち歩き、スマホを見せることも無かった。3食きちんと作り、むやみにおやつも食べさせなかった。毎日公園に行き、自然に触れさせ、テレビは全く見せなかった。決まった時間に昼寝させ、リズムを作り、早寝早起き。
愛情深く育てるため、子供の情操を育てるため、愛着をはぐくむため、賢い子に育てるため、そうするべきだと思っていたから。そして「やるべきだ」と思ってやるそれは本当に苦痛だった。(それが苦痛じゃない人もいるだろう。わが子は可愛いからずっと相手をしていたい母親もいるだろう。でも私はそうじゃなかった)

自分の為に時間を使うのに罪悪感があった。昼寝してる時間だけは赦される思いがしてテレビを見たりtwitterしたりしていたが、それ以外の時間は全て子供のそばにいて子供と関わる努力をしていた。だからこそ予想より早く昼寝から起きた時、いつも通りの時間に子供が昼寝しないとき、絶望感を覚えていた。かわいい子供のはずなのに、とにかく寝ていてほしかった。起きた瞬間から自分の時間がゼロになるから。
夫には一分一秒でも早く帰宅してほしかった。帰宅して、自分ひとりで抱えている責任をバトンタッチしたかった。
「可愛い盛りねぇ」と知らない人に声を掛けられても「…はい」と曖昧に答えるしかなかった。正直、「かわいい」よりずっとずっと「大変」だった。でもそれを「言ってはいけない」と思っていた。
一度だけ電車で隣に座った高齢の女性に最初に「大変でしょう」と言われた瞬間のことははっきり覚えている。その場で泣きそうになってしまった。

自分の時間を子育てで犠牲にすることぐらい覚悟もしないで子供を産むなという考えもちらほら見るけれど、産んでみなければどれくらいの覚悟が必要だったかなんてわかるはずもない。私にとってはそれは想像を絶するほどだった。頭の中が常に子供だけになり、そのスイッチを切れるのは子供が寝てる時間だけ。

私は本当はもっとゆったりとリラックスして子供の隣に寝転がったり、ぼんやり顔を眺めたり、可愛いなぁと感じていたらよかったと思う。そうすればあんなに子育てを辛く感じなかっただろう。寝てなくたって機嫌良くしてる時間に自分の好きなものを食べたり本を読んだりテレビをみたりしてればもう少し楽だった。でも誰もそう言ってくれなかった。親も義両親も遠く、私はずっと一人で子供を育てていた。そして私は失敗することが怖かったのだ。

あんなに可愛い時期だったのに。
可愛いと心底思えない自分を母として失格だとさらに責めながら、ボロボロ泣きながら0歳の子育てをしていた自分。
あまりに子育てが辛すぎて、二人目を産む気には全くなれなかった。
兄弟がいないことを申し訳なく思う気持ちもあるけれど、どうしても無理だった。

もっと気楽に、適当でいいよ、大丈夫。
誰かにそう言ってほしかった。子供の仕草、癖、成長の一つ一つにすぐ不安になって悩む私に「そんなもんだよ、子供って」って誰かに笑ってほしかった。…いや、本当に。本当にそう思っている。
私はとても辛い気持ちで子育てしてきたし、それが良かったとは思えない。

本当にそう思うのだけれども、はたして正解はわからないのである。

なぜなら、実際辛いと感じながらも子供のためにしてきたことは「やったほうがいいこと」であったのは確かだったのかもしれない、とも感じるからだ。

一度子育てのカウンセリングを受けた時、臨床心理士の先生に「今まで辛いと感じながらもやってきた子育ては本当に素晴らしいし、お子さんにとってとてもいい環境だったと思います」と言って頂いたことがある。
今子どもに長所があるとして、それは持って生まれたものなのか、生育環境によるものなのか、その割合は誰にも分からない。私が辛い気持ちで必死で頑張ってきたことの意味はあったのかもしれないし、そんなに頑張らなくても今みたいに成長したのかもしれない。頑張らなかった場合と比べてみることはできない。

人を育てることの難しさを本当に今も感じる。
これからもずっと抱えて行くだろう。
自分も至らないし、何が正解か分からず試行錯誤していくだろう。
後になってわかることがきっとある。
その時どんなふうに感じるのかは今はわかりようがない。

でも最良の親なんて無理だということはもう分かっている。
出来る限りしか無理なのだ。何しろ自分が不完全な人間なのだから。
でもとにかく、「どんな時でも大好きだよ」と伝え続けていきたい。
そして子供が選ぶ人生を尊重していきたい。
それが何より私が親にしてほしかったことだから。

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