スーパーカー歌詞考察#4 初期楽曲『DRIVE』等と芥見下々『呪術廻戦』にみる「呪いの言葉」

※ この記事は芥見下々『呪術回戦』「第236話 南へ」のネタバレを含む。
※ 作中の設定、登場人物の会話は曖昧な記憶に基づく再現なので誤りを含む。







私はこのところ少年ジャンプ本誌『呪術廻戦』の連載を心待ちにしている。
そこでは現代最強の呪術師と、史上最強の呪術師が凄まじい闘いを繰り広げていた。
そして、現代最強の呪術師は敗れた。
私たち一般人の安全な暮らしと公共の福祉のために、私は何がなんでも五条に勝ってほしかった。私は悲嘆にくれた。

五条は死後の世界で、すでに亡くなった同窓生である七海や夏油らとの再会を果たしたようである。
七海と夏油の死の瞬間を振り返ろう。

七海は凶悪な敵に追い詰められた死線にあって、師弟関係を結んだともいえる高専生、虎杖を眼前にした。七海はその胸中で「彼にとってこれは呪いの言葉になる。いうべきではない」と考えながらも「あとは頼みました」と虎杖に微笑み、凄惨な死を遂げる。「呪いの言葉」を吐いて死んだ。

夏油は高専時代、五条と仲が良く、一見、健全に成長していたが、最終的には心変わりをして国民の平和と安全を撹乱するようになる。かつての親友である五条は夏油を殺す、その今際の際に何かを告げる。「―――――――――」夏油は苦笑いして最後の言葉を返す。「最後くらい呪いの言葉を吐けよ」
五条が夏油に何を告げたのかは、いまだ不明だが「呪いの言葉」ではない。

私は「呪いの言葉」とは、「他人の次の行動を精神的に規定しようとする言葉」だと思う。いわゆる「呪縛」ともいえる。

七海は自分の死に直面して、虎杖に複雑な感情を背負わせてしまう言葉を吐いた。生きて、この場の戦闘を続けるであろう虎杖の「次の行動」を規定した。

夏油は自分の死に直面して、自分が親友からの精神的矯正を想定した。これは自分の行動が矯正されるべきものであるとの自覚からくるもので、夏油の倫理観は少なからず健在であった。そして五条は「呪いの言葉」を吐かなかった。この時点では、その後の「遺体の乗っ取り」は想定外であり、五条は夏油にこれ以上の「次の行動」はないと考えていたのだろう。

* * *

呪いの言葉が「他人の次の行動を精神的に規定しようとする言葉」であることを確認したうえで、話題を大きく転回してスーパーカー初期の楽曲に「呪いの言葉」を見てみよう。

ユウ…/会いたくなぁれ、僕に。会いたくなぁれ、また…

『u』

僕は芝生の上で寝転がるだけさ。
君はそれでも僕に会いたがるはずさ。
君は流行りのドラマ見届けたあとで
僕とドラマのつづき作りだすはずさ。

『Automatic wing』

すべてを何かのせいにしながら
あなたは輝いていて欲しいの。
ひとりにしないよね…?

『Tonight』

悩んでなんかないわよね
長い夜に飽きただけでしょ?
忘れたわけじゃないのよね
ちょっぴり夢に疲れただけでしょ?
恐れてなんかないわよね
ちょっぴりあなたが弱いだけでしょ?

『DRIVE』

これら『u』『Automatic wing』『DRIVE』は1stアルバム『スリーアウトチェンジ』1998に、『Tonight』は2ndアルバム『JUMP UP』1999に収録されている。

こうして並べてみると『呪術廻戦』だけでは見えてこなかった呪いの言葉の側面が見えてくる。
すなわち呪いの言葉には「独話的呪詛」と「対話的呪詛」がある。
挙げた4曲のうち、前者2つ『u』『Automatic wing』は独話的呪詛で、後者2つ『Tonight』『DRIVE』は対話的呪詛である。

独話的呪詛とは、コミュニケーションの原理上、対話中では成立しない。あるいは対話中に行うと、たとえば「気取った人、キザな人」だと思われるような「呪いの言葉」である。
『u』「会いたくなぁれ、僕に」、『Automatic wing』「君はそれでも僕に会いたがるはずさ」というセリフは、相手がその場にいないことが前提であり、いないからこそ表出できる「呪いの言葉」であるといえる。
過去の想い人への恋慕や、直接つたえることができない上司への陰口など、コミュニケーションの外部で抑圧された憎悪や恋慕は、独話的呪詛の形をとる。

一方、対話的呪詛は、対話中であるからこそ積極的に表出される。意識的に用いることができれば、たとえば「どこか憎めない人」、無意識下でやたらと用いれば、たとえば「我が強い人、押し付けがましい人」だと思われるような「呪いの言葉」である。
『Tonight』「ひとりにしないよね…?」、『DRIVE』「忘れたわけじゃないのよね ちょっぴり夢に疲れただけでしょ?」というセリフは、相手がその場にいるほうが自然であり「呪いの言葉」が相手の行動に影響することを分かっているかのような口ぶりである。
同僚、家族や友人、恋人など、対話のある近しい人との関係を規定する影響力の行使は、意識的に、あるいは無意識的に対話的呪詛の形をとる。

呪術から解放された現代社会においては、一見、独話的呪詛よりも対話的呪詛のほうが「こわい」ように思える。
しかし、縁切り神社の絵馬や、丑の刻参りといった独話的呪詛は今や効力が認められないとはいえ、心のどこかで、おどろおどろしさを感じはしないだろうか。
他方、コミュニケーション能力は現代社会で生きるためのテクニックとして高い地位が与えられており、それゆえ対人関係のトラブルで悩む現代人も多い。『呪術廻戦』の「呪術師」である七海が吐いた、夏油が想定した呪いの言葉は対話的呪詛であった。

呪いの言葉は、対話的であれ独話的であれ「こわい」のかもしれない。独話的呪詛であっても、その呪詛を「知った」時点でコミュニケーションのなかに組み込まれるのであり、対人関係への恐怖は、人が感じる「根源的恐怖」の一つなのかもしれない。

人は言語を媒介に、相互に影響し合って生きている。
よりよく生きるために自分の言葉に責任を持って、しかし気負わず、したたかに生きたい。

あるいは、よりよく生きるための「呪いの言葉」があるかもしれない。

よりよく生きるための、私の次の行動を精神的に規定するような、呪いの言葉。

「DRIVE」は「原動力」を意味する。

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