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福祉の分野

福祉の現場に入って10か月が過ぎた。
その間もやもやしていたが整理出来ず、言葉に変換できなかった。
頭が下がるほど真摯に向き合っていらっしゃる方もいれば、
自分本位に利用者さんを抑え付けて表面よくしている人もいる。
支援者優位になりがちな位置関係に違和感を感じていたのだ。

支援者支援をしておられる山田由美子氏の「誰のための支援か」等の
セミナーを受けさせていただき、えっ?そんなことが起こってるの?
とびっくりした。

4年ほど前、仙台での勉強会で教えていただいた文章をここで紹介する。
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      【癒したい人の卑しさ】

いまから書くことは、かなり毒を含んでいる。
少なからぬ読者からお叱りを受けるかもしれない。
しかし、ここ数日つづけてそれを考えさせられることがあった。
福祉にかかわる者の一人として自戒をこめて書いているのだと
大目に見ていただきたい。

それは「癒したい人の卑しさ」ということである。
「卑しさ」とは言い過ぎかもしれない。
しかし、語呂が良いから、そうしておこう。

人を癒したいと考えている人がいる。
そういう人がすべてではないが、そのなかには
人として卑しい心持ちをしている人がいるということだ。
そういう人は自分では気づいてはいない。
人を救いたい、あるいはすでに救っているという自負が
あるし、またその姿勢が社会的に評価されていると
思い込んでいるから、余計にその卑しさが目立ってくる。

思いつくままに、そういう人の様子を描いてみよう。
ある人は誰かを癒したいと思っているから、自分よりも
弱いと思える人を探している。
誰か傷ついている人はいないか、血を流してうずくまって
いる人はいないかと目を皿のようにして周囲を見回している。

そして、そういう人を見つけたら、嬉々として近づく。
その前まできたら、心の底からわきあがってくる喜び
(人を癒せるという喜び)からくる笑顔を無理にでも
消そうとする。この笑顔を消すことは訓練として学んでいる。
結果として、心配そうに眉をひそめた「作り憂い顔」が
浮かび上がる。普通の人は「作り笑い」しかできないが
こういう人は「憂い顔」さえ作ることができるのである。

そして「泣いている人」が、そのまま泣いていてくれたら
嬉しいし、まして、自分の腕のなかで大声で泣いてくれたら、
これに勝るものはない。
そのあと「泣くことができてすっきりしました」と言われたら
その脳裏にイエスと荒野に捨てられて泣き叫ぶ人とが
出会う絵が重なり、それこそ天にも昇る気持ちになるだろう。
「癒し人」の冥利に尽きるというものである。

しかし、その泣いていると思った人が思いがけなく力強い
声で答えたなら、「癒したい人」は戸惑うだろう。
彼は「強い人」よりも「弱い人」を求めている。ときには
「弱い人」を求めるあまり、人の弱いところを暴き出し
「ほら、あなたはこういう弱さがある」と指し示す。
それで相手が自分を「弱い」と認めたらそれを喜んで慰め、
認めなかったら「強がっている」と非難する。

彼は癒そうとする相手と自分とは「対等だ」と口では
言うものの、慈父あるいは慈母のように、一段上から
見ているつもりで、本当のところは自分の優位を信じて
疑わない。
そして一度でも自分が「癒した」と思う相手が、その後
どれほど飛躍しても、あれはかつて自分が癒した者だと
公言し、その人がいつまでも感謝し、自分の前に頭(こうべ)を
垂れることをどこかで期待している。

言葉と笑顔だけで癒すのは、もともと宗教者の仕事であった
はずだ。そして宗教者は神仏の道具として人を癒していた
のであり、それを自分の力とは思っていなかったと思う。
それを自分の知識や技術や才能で癒すことができると
思うから人品の卑しさが際立ってしまう。

誰かを癒したいと他人(ひと)の涙を探す人に憤っている人は存外、
少なくない。苦悩を自らのものとして受けとめている人は
誰かに癒されることを待っているわけではない。
その耐える姿に敬意を払うことが、まずは求められるだろう。
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上智大学総合人間科学社会福祉学科 岡 知史教授 2009年寄稿文

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