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第3話 忠勝と上杉家

忠勝は元亀元年(1570)の金ヶ崎の退き口や姉川合戦、元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦に参陣したようですが、それらでの忠勝の活躍ぶりは信用できる史料からは確認できません。
第一話でお話しした狂歌は、三方ヶ原合戦の前哨戦・一言坂での追撃戦において殿として活躍した忠勝を称賛して武田方の武士が立て札にして掲げたという設定で「甲陽軍鑑」に記されています。個人的には、忠勝が一言坂で活躍したこと自体は事実とみてよいと思われます。
その一方で、忠勝はこの頃から上杉家家臣・村上国清と連絡を取っていることが2月4日付国清宛書状写から確認されます(「村上家伝」所収文書)。この書状で、忠勝は上杉・徳川両氏の昵懇な関係を継続できるよう若輩ながら尽力すると伝えており、家康からの贈答品として真田黒という愛用していた黒馬を贈っています。
また、忠勝は国清との上洛についても言及している。おそらく、このころ冷却しつつあった織田・上杉間の関係を改善させるため、国清が上杉の使者として上洛することになったのでしょう。忠勝が大名間の連絡·取次役を担うまでになっていたことが窺えます。
ただし、本来上杉家の担当取次役は石川数正などであり、忠勝はその代理として連絡したに過ぎないと考えられます。ちなみに、この書状は天正3年(1575)とされてきましたが、近年では天正元年(1573)説も出されています。どちらにせよ、天正初年には忠勝が徳川家の外交を担当するまでになっていたのです。

村上国清に宛てた書状写(「村上家伝」より)
上記書状の翻刻文

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