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第6話 忠勝と小牧·長久手合戦

天正11年(1583)3月に吉野助右衛門の本領安堵状の副状を発給した忠勝は、関東の国衆へ連絡をかわします。9月15日、下野の水谷勝俊へ家康と羽柴秀吉との昵懇の関係をアピールする書状を送っています(「中村不能斎採集文書」)。
この書状で、秀吉から不動国行の刀を贈られたことを知らせるとともに、去冬に訪ねてきた水谷蟠龍斎(勝俊の兄)に馳走できず、残念であると伝え、前々から知っている仲なので、「上辺御用」があれば自分に申し付けてほしいと願っています。このことから、忠勝が水谷氏との連絡役となっていたことがわかる。また、同じ下野の皆川広照へも書状を送っており、家康による「関東惣無事」に忠勝も関与している様子が窺えます。

天正11年まで昵懇であった家康と秀吉は翌年に起きた織田信雄の三家老謀殺によって完全な手切れとなり、小牧・長久手合戦が勃発します。長久手合戦(4月9日)当日、忠勝は小牧山城の留守居を任されていました。しかし、戦況を危惧した忠勝はわずかな兵でもって小牧山城から出陣しました。羽柴軍が襲いかかると「一番合戦」をし、蹴散らしました。その後、家康と合流し、ともに帰還したとされています(「山中氏覚書」等)。
「三河物語」や「安藤直次覚書」等には忠勝が秀吉本隊に迫り、追い崩したと大々的に描かれていますが、どちらも筆者の記憶違いによるものです。
というのも、5月1日、小牧山城を囲んでいた秀吉は包囲網を解き、美濃へと引き返しました。その時、忠勝率いる連合軍が背後から追撃したのです(「細川家記」所収文書)。秀吉の感状によると、「家康於相慕者」の「備」が堅固だったため崩すことができなかったといいまし。秀吉は忠勝隊の猛攻撃を直接受けたのでした。小牧表での活躍が、「三河物語」等の記憶違いを引き起こしたと思われます。
また、その翌々日の3日には秀吉軍のいる尾張中島郡萩原に向け、鉄砲隊を率いて出陣しています(「不破文書」)。


細川(長岡)忠興の家臣に宛てた秀吉の感状。忠勝に追撃された際の模様が記されています。

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