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第4話 対武田戦と忠勝の活躍

天正3年(1575)の長篠合戦に参陣したことは後世に書かれた合戦図屏風等から推察されますが、一次史料では確認できません。彼の軍事的動向が確認できるのは天正8年(1580)からで、武田勝頼との対決が激しくなってきたころです。
7月24日、忠勝は髙天神城の補給拠点であった小山城周辺の田の稲を刈り取らせました。この時、城から足軽がでてきたのであろうか小規模な合戦に発展し、城まで追い込んだ忠勝隊のうち、3名が槍で討ち取られています(「家忠日記」)。
翌天正9年(1581)12月の髙天神城への総攻撃では、鳥居元忠とともに城から出てきた足軽を追い込み、曲輪まで攻め上ったとされています(「水野日向守覚書」)。また、この時の首注文が「信長公記」に記載されており、忠勝は22もの首を取ったと記されています。これは、忠勝の武勇が数値として窺える唯一の事例でもあります。

「信長公記」に記載されている高天神城攻めの首注文。忠勝の名も見えている。

天正10年(1582)の甲斐侵攻戦でも、忠勝は家康の先鋒部隊として出陣しています(「家忠日記」)。

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