Priscilla 2023 の感想

ソフィア・コッポラ
監督映画 興行収入
「プリシラ」
🇺🇸$5,310,093
8.3億円

1999年
ヴァージン・スーサイズ』
興行収入 $10,409,377

2003年
ロスト・イン・トランスレーション』
🌍
$118,685,453

2010年SOMEWHERE』
$13,936,909

2013年
ブリングリング』
$20,029,261

2017年
The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』
🌍
$27,869,129[2]
🇺🇸🇨🇦
$10,709,995

興収8億円とは、どういう評価を受けてのことなのだろうか?並べて見ると、既存品に比べて桁がひとつ少ない。
本邦においては、興収10億円はヒット作だろう。
ちなみに、
今年の大型マンガ映画のハイキューは、公開何週目かで70億円、1週間で8億円増を積み上げている。

若者の多くは配信で見る、または見ないのだから、地方に拡大公開した時に見に行ったのは米国でも高齢層なのだろう。きっと。たぶん。
拡大公開で興収が伸びたのはふつうの郊外シニア層にリーチしたからで、そう言う意味では、「トップガン マーベリック」と同じ客層が支えたと言えるだろう。


監督からのメッセージ
https://gaga.ne.jp/priscilla/about/

...

プリシラ・プレスリーの回想録を読み、彼女のグレースランドでの体験に心を動かされました。私が表現したかったのは、エルヴィスの世界に飛びこみ、紆余曲折を経てやっと自身の人生を見つけたプリシラの心情です。
私はモノづくりを行う人間として、先入観ではなく、登場人物の目を通して世界を見せることに尽力しています。
アイデンティティや主体性、変容
といったテーマには、常に関心を持ってきました。
この映画では、プリシラがいかにして今の彼女となったのか、そして彼女とその後の世代にとって、
女性であることがどのような意味を持つのかを紐解いていきます。
確かに、プリシラが置かれた環境は、とても壮大で一般人とはかけ離れたものです。でもプリシラも多くの女性と同じように、色々な経験を積みながら大人になりました。
プリシラの人生は、類い稀であると同時に、私たちが深く共感できるものでもあります。
...

◯プリシラがいかにして今の彼女となったのか
◯女性であることがどのような意味を持つのか
◯多くの女性と同じように、色々な経験を積みながら大人になった

を、描いたそうである。

一方、この映画に日本のファンがわだかまりを持っていると思われる点は、プリシラさんの人物像にウォッシュ、または偽善があると見る点である。プリシラさんは、事実として

◯離婚したのにプレスリー姓を名乗って(ビジネスをして)いる
◯離婚後に何度もパートナーが代わった
◯実の娘に遺産相続の件で除外されている
◯孫と、相続の件で裁判で争った

という人物である。少なくともファクトは。

この映画の肝要のうちの2つは、
・女性であることがどのような意味を持つのか
・(女性同士の)共感
にある。

しかし、プリシラさん書いた「自伝」ベースの物語だ、という前提が飲み込めないと、
・女性であることがどのような意味を持つのか
に関しては全く意図したように伝わっていないように思える。

それというのも、多くのエルヴィスファンが思っている、愛されたけれども愛を注がなかった人物であるという評価につながる描き方を取っていないため、人々が予め持っている人物像をウォッシュした様に感じるため、
エルヴィスファンにとっては
「偽っていることがどこなのかに注視してしまう」設計
になっているからだ。

また、
「プリシラ」で提示された人物像に、ギャルとしての自分が「共感」できるかと言われると、全くできない。というか、ギャルとしてkawaii消費を是とする事に加担できない。

「ギャル」としての目線は、前世紀にはとても鮮烈で、多大な共感を呼んだものだったが、
「プリシラ」を公開した2023年にはこれが明確に廃れた、という事なのではないか。
なんなら、日本における「kawaii消費」は終わったと言ってもよい。

今年のCoachellaまつりにおいては、マンガ「推しの子」のテーマ曲のYOASOBIの「アイドル」がかつてのビリーアイリッシュもかくやという大変な盛り上がりを見せ、
日本のマンガ由来コンテンツはいまだ世界に訴える力を持っている、と示した。
kawaii消費に似ている「推しの子」の「アイドル」は、どこがいいのかというと,
かわいい側の闇が「this is america」ばりにトラップでどす黒く表現されているのが良く、共感を引き出している。
「プリシラ」は闇も描いている様でいてトラップのパートが無く、味がぼけている。

その、
味がぼけているのが或いは「センスがある」ということなのかも知れないが、2024年の現在では「不味い」に近くなっている。

どこがまずいのか。
冒頭のふかふかの化繊混合絨毯をキャンディレッドのペディキュアの幼い足が踏む所から、産院に行く時にアイライナーを跳ね上げているという所まで、
コラボがある箇所の何もかもがである。

そして、米国の時代劇に「未成年目線」を持ち込んだということが、そこまで「おしゃれ」で「センスがある」と言えるのかどうか、
大々的に服飾や大規模小売店とコラボするほどのことなのかどうかは、大いに疑問である。

というか、平面に写し直した物に意味を込めるセンスは、意味の無いものとして書き換える勢力がすでに出て来ており、文法自体が変わる可能性がある。

「ジャクリーン・ケネディ」のバージョン違いなのかな?或いは?と、まる前には思っていたけれど、そうでもなく。

その後の意欲的なビジネスを見るに、やっぱりぼんやり味のセンスがよいセレブ民という書き換えは
当たらないんだろうなあ、というところに落ち着く。

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