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君たちは紐一本で1時間遊ぶことができるか?

私のデザインの師匠の言葉である。

ものあまり時代の到来と言われてから既に30年も経とうとしている。

それでもまだまだ  "ものあまりの時代"  が続いているように思う。
ものに溢れているから、紐一本で遊ぶこともない。
学んだ当時から時代はさらに紐一本から遠ざかっている。
携帯を出せばそこにゲームが内蔵されている。
もはやテレビゲームですらも友人のお家に行かなくてもできる。

そして私たちは、想像力を無くしていった。

「紐一本で1時間遊ぶことができるか?」
この問いはこれからの時代に生きる私たちの大切なもの感性・想像力の欠如を懸念してのことだったのかもしれない。

先生は言う。

人間ひとり一人には無限の可能性があります。
私たちは毎日の生活の中で、あまりにも「どうでもいい」「どうにかなる」発想で暮らしていないでしょうか?

「今どうすれば」を考え時代を読み、自分自身を知ることが必要だと思います。

自分の発想を閉じ込めないで、色々な生活の中のデザインにトライして見てほしいのです。

と。

さて、話を元に戻すと「紐一本で1時間遊べるか?」
と言うのはもちろん比喩である。
発想を閉じ込めず、感性を磨くこと。
頭で考えず感じることこそが大事なんだと私は教わった。

そしてそれには「」を一生懸命に生きることが大事なんだと。
過去でも未来でもない。「今ここ。リアル」を生きなさい。と。

そして先生はこうも問うた

「君たちはアルパカのセーターを砂漠の真ん中で売れるか?」

とも。
正解は一つではない。あらゆる角度から、アホみたいな回答でもいいから100個のアイデア(サムネイルスケッチ)を出しなさいと。

紐一本で遊ぶほどの環境に恵まれて

さて、その師から学びを得て約20年。奇しくも私は、紐一本で遊ばなければいけないほど何もない環境に置かれることとなった。

「何もないから何もできないのではない。」

「何もないからなんでもできる」

そう教わってきた私だけれど、分かってはいたつもりでも、やはり分かっていなかったんだなぁと思う。頭で理解したことのほとんどは意味がないことだった。
ここにきて、それをやっと体で学ぶことができた。

ここには何もない。だからいつも手探りだ。
頭をフル回転させたところで、ほとんど意味はない。
考えた通りにはまずならない。
パソコンの前に座っていても何も始まらない。

だから考えすぎずに感じたことを記す。
最初に100のサムネイルスケッチを作るのではなく、
動きながら考える。
体を使って、一つづつ失敗して、3歩進んで4歩下がってたりしながら進む。

私の前に現れた何もない土

さてそんな私の前に900㎡のなんもない土地が現れた。
ここには何もなかったけど、なにをすることもできた。
米を作って見たら成功した。
麦を作って見たら失敗した。
豆もダメだった。
観光施設を作ろうか?
焙煎工場を作ろうか?
ほこらを作ろうか(!?)
ピザを焼こうか?

クワを片手に考えた。

何もないこの土で何して遊ぼうか?

目の前で火が上がった。
あちらの山でもこちらの山でも
火が森を壊し、見る間にキャッサバ畑に変わっていった。

あ!そうだ
森を作ろう。

あまのじゃくな私は少なくなる森をみてそう思った。

美味しいマンゴーが届いた。

あ!マンゴーを植えよう。

美味しいバナナが届いた

バナナも植えよう

よし!食べれる森を作ろう!

感性を豊かにしていると、あらゆる情報が高度なネットワークのように高速で繋がってピンとひらめきやすくなる。

こうして食べれる森作りは始まった。
「先生私はあと5年。何もない土地で遊んで入られそうです」

何もないところには、確かにたくさんの夢と可能性がありました。

サポート頂いた場合は、食べれる森作りを中心に、南ラオスの自然を大切にする農場スタッフのための何かに還元させてもらいます。