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2022年2月14日(月)|安徳帝潜幸ノ地

安徳天皇御陵跡地(兵庫県能勢町)に行ってきた。

 『平家物語』では、壇ノ浦の戦いにて母・二位尼に抱かれて海に沈んだことになっている幼帝。

 ちなみに一部引用すると、以下のように記されている。書き手(語り手?)フルパワーの一段。

「二位殿やがて[安徳帝を]いだき奉り、 『浪の下にも都のさぶらふぞ』となぐさめ奉(ッ)て、千尋の底へぞ入り給ふ。
 悲しき哉、無常の春の風、忽ちに花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体を沈め奉る。殿をば長生と名づけてながきすみかとさだめ、門をば不老と号して老せぬとざしとかきたれども、いまだ十歳のうちにして、底の水屑とならせ給ふ。十善帝位の御果報申すもなかなかおろかなり。
 雲上の竜くだ(ッ)て海底の魚となり給ふ。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、いにしへは槐門棘路の間に九族をなびかし、今は舟のうち浪の下に、御命を一時にほろぼし給ふこそ悲しけれ。」

 安徳帝は、公式には山口県下関市にある赤間神宮(もとは阿弥陀寺)にまつられており、一般人立入禁止の陵墓が現存している。

 しかし実は、石見(島根)→ 伯耆(鳥取)→但馬(兵庫)と流れ、最終的に摂津国能勢に “潜幸” した、と語る史料があるとのこと。

 その史料とは、お供のひとり藤原経房が残した『経房遺書』というもの。

 1817年、能勢の地に住む辻勘兵衛という人の家の屋根葺き替えのさい、棟木に吊るした竹筒から発見されたそう。この遺書が書かれたのは1217年と考えられている(ちなみに壇ノ浦の戦いは1185年)。

 その後、岩崎神社の社殿下から「養和元年」(1181年)の銘が刻まれた経筒・鏡・合子などの遺品が出土し、御陵跡地としての存在が確認されるようになったとのこと。

 興味深い歴史。何はともあれ、ひさしぶりの田舎はとてもよかった。

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