2022年3月16日(水)|かかる世に影も変らず澄む月を
保元元年(1156年)、戦がおこった。その後の日本の歴史の流れを決定づけてしまうような戦であった。
「治天の君」たる皇位の継承をめぐり崇徳上皇(兄)と後白河天皇(弟)が衝突。また藤原摂関家では「氏長者」の位をめぐり忠道(兄)と頼長(弟)が対立した。
崇徳は頼長と組み、後白河は忠道と結託。それぞれが平家や源氏ら武士団の力を借り、武力衝突へと発展していく。
平家は一丸となって戦いに臨んだ・・・というわけではなかった。清盛が後白河側についた一方で、その叔父・忠正は崇徳側に組みすることを選択。源氏方においても事情は同様で、義朝は後白河の軍勢に入り、その父・為義は崇徳側で戦った。
兄が弟に、叔父が甥に、父が子に、刀を向ける戦となったのだ。
この乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと流され、頼長は負傷ののち死亡。武士団内部においても、清盛(甥)は忠正(叔父)の、義朝(子)は為義(父)の斬首を命じられた。
のちに保元の乱と呼ばれるこの戦は、親兄弟の分裂という悲劇をもって幕を閉じた。
かつて佐藤義清(のりきよ)と名乗り武士として朝廷に仕えた西行もまた、この戦の成り行きを見とどけていた。
和歌を愛し和歌に生きた西行は、これまた和歌の才に恵まれ和歌を愛した崇徳に対して特別の情を抱いていたらしい。
その崇徳が戦に敗れ、出家のために頭を剃った挙句、謀反人として讃岐に流されようとしている。この大事件を目の当たりにして、嘆かずにはいられない。
しかし。
夜空を見上げると、月がいつもと変わらぬさまで澄んでいる。
崇徳を敬愛していたのと同じほどに、もしくはそれ以上に、西行は「月」に対して特別な感情を抱いていた。
見るも無惨な崇徳の姿と、影も変わらず澄める月。
このような状況で月に心惹かれている自分を省みて、西行は「恨めしきかな」と詠まずにはいられなかった。
そうでも嘆かなければ、どうしても崇徳に対して、敗死者たちに対して、気が済まなかったのだ。
・・・とまで言ってしまうと深読みに過ぎるだろうか。でも、なにはともあれ、西行には共感できる歌がいくつもある。
かかる世に影も変わらず澄む月を見るわがみ身さへ恨めしきかな。
【参考文献】
◎西澤美仁(2012)『西行 魂の旅路』角川ソフィア文庫
◎久保田淳・吉野朋美[校注](2013)『西行全歌集』岩波文庫
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?