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ペテロに恥をかかせたパウロの恥?

 新約聖書の「ガラテヤ人への手紙」には、使徒同士の「ケンカ」と読めてしまえるような記述がある。

ところが、ケファ[ペテロの別名]がアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私[パウロ]は面と向かって抗議しました。ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。・・・彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」
ガラテヤ人への手紙2章11〜14節

 要するに「使徒パウロが、皆の面前で、使徒ペテロを叱りつけた」ということだ。

 ここで思い浮かぶ一つの問いは、「パウロはなぜ、イエスの教え(マタイ18章を参照)にしたがって、二人だけのところでぺテロを諌めなかったのか」という問いである。

 この問いに対する一つの答えとして、Lau(2020)は以下の点を指摘する。

しかし、ことの重大さを考えると、ペテロを二人だけのところで個人的に諌めるというのでは不十分であったことだろう。というのも、ペテロの罪は、少数の人にのみ知られた、個人的(private)なものではなかったからだ。否、ペテロの罪は皆の前で堂々と犯されたものであり、その有害な影響は教会全体へと染み渡っていた。パウロによると、「ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまった」(2・13)というのだ。
Kindle版、103頁(拙訳)

 著者は、ペテロに対するパウロの叱責をretrospective shaming(過去に実際に起きた出来事に言及するタイプの恥かかせ行為)と呼んでいる。

(ちなみに本書では、パウロが教会の道徳形成のために〈恥〉を効果的に用いた、という前提で議論が進められている。もちろんここでの「恥かかせ行為」にも、ポジティブな意味が込められている。)

 ヤコブのところから来た「ある人たち」がどれほどの勢力であったかは分からない。

 しかし、割礼派の彼らは、「神の民」としての誇りをもつユダヤ人信者からの支持を受けていたという点で、当時の教会においては有力者であったことが想像される(この点はまだ想像に過ぎない)。

 だとすると、その有力者たちの面前でペテロを諌めて恥をかかせるという行為は、パウロにとっても、恥をかくリスクのあることであったのではないだろうか。

・・・なんてことを考えました。

参考文献

Lau, Te-Li (2020) Defending Shame: It’s Formative Power in Paul’s Letters. Baker Academic.

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