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恥についての研究ノート(4)ーー「罪」との関係

 『菊と刀』において、文化人類学者ルース・ベネディクトは日本と欧米の文化を対比させ、対照的な二つの文化として規定した。日本は「恥の文化」であり、欧米は「罪の文化」であると。

 ベネディクトによるこの規定について、精神科医の土居健郎は二つの観点から問題点を指摘する(『「甘え」の構造』74頁)。

問題点①:内面的な行動規範を重んじる罪の文化が優れており、外面的な行動規範を重んじる恥の文化は劣っている、という価値判断が前提とされている点。
問題点②:罪と恥の感情がまったく無関係であるかのように前提されている点。

 二つ目の問題点は、特に聖書における「恥」について考える上で、とても重要であるように思う。なぜなら、改めて指摘するまでもないことであるが、聖書では恥の問題とともに「罪」の問題が取り扱われているからである。

 聖書で頻繁に言及されている〈恥〉と〈罪〉。これらを分離するのではなく、統合して考える視点は欠かせない。

 この注意深い姿勢の重要性は、「文化」ということばを用いる際にも当てはまる。すなわち「恥の文化」や「罪の文化」というのはあくまで仮定的な表現であり、必ずしも現実を厳密に反映しているわけではない、ということをわきまえておく必要がある。

 「罪の文化」と呼ばれる文化圏にも恥の問題はあるし、同様に「恥の文化」と呼ばれる文化圏にも罪の問題は存在する。これらをどのように統合して取り扱うことができるか、聖書における「罪」と「恥」との関係はどのようなものか、などについてはまだぼんやりとしている。これから考えていきたいと思います。

「この二つの感情[引用者注:罪と恥の感情]は同一人物がしばしば同時に意識する者であって、相互に極めて密接な関係があると考えられるからである。すなわち罪を犯した人間は、しばしばそのような罪を犯した自分を恥じるのではなかろうか。・・・」(『「甘え」の構造』74頁)

【参考文献】

土居健郎(1971[2017])『「甘え」の構造(増補普及版)』弘文堂

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