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7/8 作って来て思ったこと、もう一つ

さらにもう一つ、思ったことがありました。

7/08 10:37
あともう一つ思うことは。
確かに日本は素晴らしい精緻な職人芸の国だけど、そこを重んじるばかりに「そうではならじ」と、「創造性の芽」が摘まれているような気がする。
日本だけではないのかもしれないけれど。
何だろう…
そちらの方が一般的には「努力すればできる」ことだからか、
その方が「よき労働力」を産み出すには適しているからか、
そもそも先生が一般的な「数値化されたこと」同様に「評価する為」にはそこを基準にしないと周りに示しがつかないからか、
そもそも「型」が重要とされる文化だからか、
家庭科の裁縫でもなんでも、
「手本に忠実」とか「線に沿って綺麗に」とかが重視される結果、「縫い物が苦手(嫌い]」な私が生み出されてしまった。
私にとって、「天然に縫い物も編み物も抜群にできて、好きな結果、どんどん習熟していかれた」サヨコさんとの出会いはすごく大きく、お互いをよく知る前は、緻密にできない人は却下な感じの方かな、と、思っていたら全然違ってむしろ創造を応援してくださる方で、「私も我流よ!」とおっしゃる。
我流の極みが素晴らしいクリエイションになっておられるのだ。
そう。以前、ちらっとかな書道で既に亡くなられている当時オッさんであったであろうその会の宗家みたいな先生の手本を真似るうち、だんだん巧く真似られるよいにはなったけど、自分は数ヶ月やってみて、どんどん「私はこの時代に生きたこのオッさんじゃない」と思うのに、何年も、何十年も続けておられるおば様達が展覧会前にまだ先生の手本を欲しがられている様を見て、その人達が何の為に修練されているのか解らなくなって逃げ出したのだけど…。
確かに「学ぶ」は「真似ぶ」から来たというし、一から得るより効率はいいかもしれない。
でも、その学びの元が、「こんなやり方もあり、一般的にはこれが一番効率がいいと思われています。」という注釈付きで為されていて、学ぶ方もそういうものだと思いながら学んでいたらそれでいいけど、元の方が恐らくビジネス上の理由で「そうあらねばならぬ」と押し込んで来て、学ぶ方もそう思っていたなら、先程の「自分では作れない」の思い込まされと同じで、「学びに行かないと、できるようにならない」になり、全く本末転倒だと思う。
自分のに関していうと、そこらに普通に(有難く申し訳ないことに)安くで売っているものをわざわざ自分で作りたいとは思わない。「ない」ものだから創りたい。
それは、ラ・ネージュを創ったのと全く同じ感覚。
そして、私には残り時間は若い時ほど多くない。
勿論少ない経験でも積む度に多少は習熟度は上がっている。
けれど、やはり自分が長けているのは発想をとりあえず形にする能力だと思うので、重箱の隅をつつくように、やれ縫い目が曲がってるだの粗いだのいうのはやめてほしい。(別に言われた訳ではありませんが予防的に。多分、そんなこと、実際には自分が物を買う時品定めする時以外誰も気にしていない。)
それって私が初めてPTA会長をした際仲間と一緒に任期の1年の間にちゃんと手順を踏んで色々改革した後、私とやれば楽、みたいに思い込んで2期目、一緒に本部をした人に会議をすれ部屋のお茶の在処を私が知らなくて呆れられたようなものだと夕べ思った。
勿論、凄腕で縫製ができる人のことはリスペクトしかないのだけど、私が長けているのはそこではないということ。
で、子どもの頃は、たまたま身近に腕利きの仕立て屋さんがいて私の絵を形にしてもらっていて、完成度はめちゃくちゃ高かったけれど、
今、「完成度」を求めるなら、バッグや服の縫製など「外注」なのかもしれないけど、そこじゃないーー!
自分で色々考えながらするのがすこぶる楽しいのだ

『令「和」服』についても帯についてとか、実用新案取りたくなるようなことをお風呂で思いついて興奮してるけど、それを商品化したりとか、次また作る、とかは自分のやることとは違う感じ。
思えばこれまでずっとそうだった。
そこに至るプロセスが楽しいんです。
きっと。
だからバッグも同じ型紙を用いて素材を変えてもう一つ、とはならない。
転がる石。
一生それで生きていけたらいいな…😅。

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