世代

93歳になる私の祖父は健康長寿を絵に描いたような人である。
毎日畑仕事に精を出し、老人会の会長を会員の強い推薦で務め、町内の信頼も暑く、一昔前までは剣道のコーチを務めるほどの手練、それでいて勤勉、謙虚という武士道を貫く人柄。

1日の過ごし方に拘りがあり、ルーティンとリズムを崩さない。一挙手一投足にいたるまで丁寧に分析し行動する姿から祖父は生活習慣そのものを稽古化している。
自分の型を見出しそのリズムに没頭し続ける。
「堂に入る」とはこのことか。

ここで私が思うのはこの真面目な生き方を真似したり参考にするのではなく、いかに自分は自分のリズムを自分らしくつくるか、という点である。
憧れは理解から最も遠い感覚である。
だから私は尊敬しても他者に憧れは抱かない。
その人はその人で私は私だから。
外部に自分の求める答えはなく自分にしか答えは出せないし他人のリズムはヒントにこそなれど答えには達しない。

祖父の1日はきめ細やかで繊細だ。同じ1日を繰り返すということは「変化」や「異常」にもいち早く氣づけるはずでその感度の良さは他者に信頼を与える代物だ。

「93歳」という年齢からあはたはどんなイメージをするだろう?多くは身体的にネガティブなものが多いのではないだろうか。
「自信があるから怖いのよおじいちゃんて」と祖父の娘、つまり私の母は言う。
しかし祖父のその自信とは根拠のない自信などではなく祖父が膨大な同じリズムの一日を丁寧に繰り返してきた結果存在するものだ。

世間一般理論に当てはめて祖父のスタイルに意見する母に「そんなこともわからないのか...」と私は呆れた。
世代は受け継がれ超えてゆきアップデートされるものだが我々の親世代と我々の2世代で大きく感覚的なエラーが起こっている。
基本的に我々人類は「情報」がなくては生きていけない。しかしそれらに呑まれぬように純度は高く、己の感覚を価値観として信じるべき。
そして自分を信じられるように身体と心の対話を大切に。
私の親の世代と私たちの世代は「感覚」を大きく奪われた世代だ。親などはまだいいかもしれない。
これからモニターを見続ける時間はスマホ世代の方が圧倒的に多くなる。
モニターを見る時間は「感覚」を鈍らせる。
「感覚」がわからないと身体の異常に氣づけない。
身体の異常に氣づけないということはワニに尻尾を噛まれてるのに呑気に草を食い続けてる哀れなサルのようなものである。

老害などとじさまばさまをディスってる暇はない。