「日本は同性愛に寛容」は本当か ~『セーラームーン』と『私の推しは悪役令嬢。』そして『まどマギ』から考える~
日本は同性愛に寛容とよく言われる。「だから同性婚に賛成」ではなく「だから同性婚制度が無くても良い」と続くのがこの言説の謎なところだが、これは本当なのか。
この根拠としてよくサブカルが出される。例えば以下の記事では、
さて、ではその後「宗教的に同性愛に厳しい」北米はどうなったかと言えば、カナダは2005年に同性婚が認められ、アメリカは2015年に同性婚が認められた。
そしてそれから8年以上経った2024年現在でも日本では同性婚は審議すらされていない。
そもそも上記の記事で、「どことなく同性愛的な表現も目立つ」と書かれてるように、日本でもあくまで「匂わせ」ていただけに過ぎない。この二人が付きあったりキスしたり結婚しても日本の視聴者は受け入れたのか? 北米でも「いとこ」に関係変更するだけで済んだことを考えると明確に恋人のようなことはしていなかっただろう(もししていたら血縁関係があることで更にタブーになってしまう)。
2023年の日本のアニメにおける同性愛描写
では現在において「政治」はともかくポップカルチャーでは日本は同性愛に寛容と言えるか、というとそれも違う。「百合」「美少女同士でキャッキャウフフ」は多いかもしれないが、「ガチ」の描写は無い。具体的には『私の推しは悪役令嬢。』というアニメを見てみよう。
この作品では主人公(女性)が乙女ゲーの世界に転生し「推し」の「悪役令嬢」クレアに出会うところから始まる。悪役令嬢ものによくあるように最初はギャグ的に始まるが、コミカライズ(以下、これを原作と呼ぶ)2巻あたりから様子が変わってくる。
ここでは
とかなり真面目に同性愛について語られるが、このシーン、そしてその後の主人公が「クレアのことを諦めてるのか」と聞かれるシーンは原作では
とやや狂気じみた描写がされる(実際原作のかなり後で主人公がそう考えざるを得なくなった理由が説明される)。これは言い換えれば主人公が「本気」であることを示すものだが、アニメ版ではこのシーンでそもそも顔自体が描かれない。
そして原作5巻、アニメでは最終盤(ラスト3話)では、同性愛者の恋敵が登場し主人公は勝負に挑むことになるのだが、ここでも描写は「軽い」ものに変更されている。
もっとも表情などについては主観が混じるしアニメの制作都合で手をかけられなかっただけかもしれないなどの問題があるが、意図的に省略されてると「客観的」に推測できる場面はある。
例えば以下の描写は丸々省略されている。
「毎晩ボクの部屋に来ては泣いている」はアニメでは「昨日ずっと泣いてた」と重度さが下げられている。
そして作品のテーマを根本から崩してしまうのは以下のシーンの改変だ。
アニメでは「私は女性で」が「同性で」となっている上、「クレアはストレート(異性愛者)だ」のセリフは完全削除されている。要するに、「自分は同性愛者だが相手は異性愛者だから普通はどうやっても叶わない苦悩」という作品の根幹に関わる部分が描かれていない。
つまり、アニメという多くの人の目に触れる媒体では同性愛が無臭化されギャグ・軽いものとして描かれているのだ(そして茶化し・誤魔化しが無ければ受け入れられないというセリフは実はアニメでも出てくる)。
この記事の主旨とはずれるが、作品の根幹を壊すことは当然他の部分にも悪影響を与える。この作品内では「平民」と「貴族」の対立が深まっていて革命が起きかねない情勢になっている。普通なら現代人の感覚を持っている主人公(転生者)が「平民」を擁護し「悪役令嬢」が「貴族」の地位を守ろうとするところだが、この作品ではその役割が逆になっている。
なぜ主人公が「現実は変えられない」と言い、そして一方で現実を変えようと努力もするかと言えば、「同性愛が受け入れられなかった」という挫折経験があり、そしてその上で足掻く覚悟を決めたからだ。
しかしアニメでは同性愛が「現実から遊離した絵空事」として描かれているため、主人公が「現実」を諦めようとする理由も足掻く理由も見えてこなくなってしまっている。
そもそもの話
もっとも以上の話は「各時代のサンプル数n=1じゃねーか」と言われればそれまでだが、超有名作品で上記を裏付けられそうな作品がある。魔法少女まどか☆マギカだ。ある意味で主人公とも言えるほむらは、「[新編]叛逆の物語」が公開された途端クレイジーサイコレズと呼ばれるようになった。
なぜクレイジーサイコデビルとかではなくレズを強調する必要があるのか、そしてテレビ版でもまどかと「百合」的な関係はあったのにそう呼ばれなかったのか、と言えば結局同性愛をガチでやると蔑称で呼ばれるということだろう。
なお今年冬ようやく続編が公開されるらしい。
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