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「AI絵師」は人類補完計画を目指しながら結局上位の存在になりたいだけでは?

『ジ・エンド・オブ・エヴァンゲリオン』で、庵野は「何が『幸せ』なんだろうか? どうしたら『幸せ』になれるのだろうか?」という当初の問いかけにたいする答えを見出している。未来に幻滅し、未来との接点を持たないシンジのような人間には、自分以外に誰も存在しないことが「幸せ」であり、したがって「幸せ」になるには一切の他者を抹殺しなければならないのだ。だが現実の世界でも、進歩主義への幻減が深まっていることを考えれば、これはアニメの中だけの話ではない。

佐藤健志『未来喪失』 III-11「進化から自閉へ」


また「よくわからん画像生成AI擁護」批判記事になります。

自己矛盾が多すぎるので、この記事ではいったん「生成AIの問題」は忘れて矛盾点だけ書いてくことにします。

表現することへの欲求は私の中にずっと残っていた。絵を描くことを止めた私が新たに手を伸ばしたのは、物語を紡ぐという形だった。(中略)「MidJourney」というソフトを見つけた。それは文字で絵を生成出来るという画期的なソフトだった。私はそのソフトを見て、自分の書く小説に挿絵を描き入れることができるのではないかと思った。

小説に挿絵を入れたいからイラストAIに手を出したのだとして、

そして革命が起こる。
NijiJourneyv5になった瞬間、私の生成物は爆速で進化した。一気に高品質な絵が生成できるようになったのだ。
(中略)
それに適当プロンプトでも美麗な生成物を生成してしまうJourneyシリーズは革命だ。(とはいえ成人向け絵を生成したくなったり、手軽に漫画絵や絡み絵を出力出来るようになったら乗り換えざるを得ないが)何より私はJourneyシリーズと共に成長してきたからだ。

「私はJourneyシリーズと共に成長してきた」って、ソフトがバージョンアップしたから「高品質な絵」を生成できるようになったって自分で書いてますよね⸮ あと前回の人もですが「私は成人向けの絵を生成したりしません」と言えば良識的人間になると思ってるんですか⸮

私がFGOのキャラ推しアカウントからAIを中心にしたアカウントに切り替えたのは(中略)「所属欲求」から来ていた。それは、私自身の創作活動をどこかに属させたい、というただそれだけの理由だった。

「所属欲求」というのがよくわからないんですが、小説を書いていた時点で「FGO」というジャンルに属していたのでは? 画像のキャプションに「AI界隈でもいいから所属したかった?」と書いてますけど、だとしたら「創作活動」ではなく「自分」をどこかに所属させたかったという事では? あと小説に挿絵を入れたいからイラストAIを使い始めたんじゃ無かったんですか

私は手描き絵とAI絵は別ジャンル、別競技だと思っている。それぞれの美しさ、それぞれの表現の可能性があるからだ。タイトルに挙げている目標と矛盾してると思われるかもしれないがその目標は単なる自己満足であり、この2つは別競技である。

「競技」と言うのはその名の通り「競う」ものだから、「自己満足」が目的なら「お前とバスケやるの息苦しいよ……」と言われないためにもしない方がいいと思うんですが。あとAIじゃない絵も「競技」では無いのでは? 絵によって付く値段が変わったりはするでしょうが、「このイラストはいい。こっちのイラストもいい。方向性が違うしどちらが上とか比べるのは難しい」と思ったりしないんですか?

私が目指すのは、AIを駆使して頂点の神絵師のレベルに到達することである。その基準はPixivやTwitterでの「いいね」やリツイートの数ではなく、私自身が「達成した!!!」と確信できる瞬間に訪れる。これはあくまで超主観的な超自己満足で、それだけで満足感を得る。
(中略)
我々はジャンルの画力のトップ10%に到達することができる。
(中略)
トップ1%のプロクリエイターの神絵に到達するには、まだ遠い。彼/彼女らの作品には、完璧な構成、構図、デッサン、キャラクターの絡みが見事に融合されている。

超主観的な超自己満足が目的なら神絵師のレベルに到達する必要無いのでは?「完璧な構成、構図、デッサン、キャラクターの絡み」とかが目標だったとしても「トップ1%」とか数字で限定する必要無いですよね? 仮に絵描きの30%が「完璧な構成」等を描けるなら「トップ30%」でも問題ない訳だし、単純に「完璧な構成」等を目標にすればいいのでは?

画力によるカースト制度が消え去ることを、喜びと感じている。
創作ジャンルには、「画力カースト」という厳然とした存在がある。絵が下手だと、pixivのブクマやいいねの数も少なく、舞踏会に招待されなかったお姫様のような哀しみを経験する。

チヤホヤされることではなく自己満足が目的のハズなのになんで「画力カースト」とか気にするんですか? 「自分の理想通りの完璧な絵が生成できた。ヤッター」で満足できるなら「舞踏会に招待されな」くても全然構わないのでは?

しかし、AIによるイラスト生成の世界は異なる。全員が一定以上の画力出力が出来ることから、「画力カースト」は存在しない。その結果生まれる環境は、非常に寛大である。全ての人が平等に扱われ、素晴らしいAIイラストに対する反応も、「すごい!どんなプロンプトを使ったのだろう?」と、純粋な好奇心と驚きに満ちている。

さっき「競技」と言ってませんでしたか? 「全員が一定以上の画力出力が出来」たとしてもその中で「上手い下手」が存在するなら結局「画力カースト」が生まれるのでは? 
整合性を付けるために「すごい!どんなプロンプトを使ったのだろう?」から推測すると、要するに「素晴らしいAIイラスト」が生成できてもそれはAIのおかげで人間は関係ないから平等に扱われるということですか?

実を言うと、私がAIを用いて絵を描く理由の一つには、かつての美術教師への復讐心があるかもしれない。その教師が私にとっての心的外傷であり、その結果としてAIイラスト生成への道を選んだ。

教師に「結果が全てだ。お前らがどんなに努力していようが過程は関係ない」と言い放たれる。
絵は出来が良い順に残酷に並び替えられる。

もう俗流心理分析になりますが、要するに「他者による序列化」が嫌だから「平等」なAIイラストに走ったと? まあ確かに人間が介在しないから序列化されようが無い。フィクションでもよくありますよね。「平和を乱すのは人間だから人類を滅ぼせば平和になる」とか「すべての人間の意識が共有されれば争いのない世界が実現する」とか。Blueskyでフォローしてる人が「全部エヴァンゲリオンのせいにしておこう。まったくエヴァンゲリオンは悪影響を与えてけしからん」と言ってましたが、進歩主義──を生んだ知性崇拝のせいにしておくとして、人類補完計画が目的なのに「神絵師を越える」と結局自分が上位の存在になりたいだけなの何とかならないんですか? 「AIに全ベットし、努力を放棄した奴。手描き絵師よりAI絵師が優れていると暗示をかけないと生きていけない奴」という指摘が完全にその通りだったということでは?

最後にもう一度、物語を紡ぐための小説はどうなったんですか? 

──居場所の発見が重要なテーマですよね。

そうですね、射撃の心得で「的を狙うな」ってセリフがありますが、ゆらに置き換えると友だちが欲しくてもそれを目指すな、自分が充実していけば自ずと友だちはできるし、そもそも友だちが欲しいかどうかすらどうでもよくなる。それをサバゲーや射撃の哲学性と重ね合わせてみました。

『ステラ女学院高等科C3部』監督川尻将由 

(キレイに締めたかったのですが)続編:


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