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オルガン前奏曲について BWV639から考える

みなさん、こんにちは。

今回は、教会の牧師として礼拝の中の「前奏」について考えていることを記していきたいと思います。

多くのキリスト教会は、日曜日にイエス・キリストの復活を記念して集まり、礼拝を行っています。

礼拝では賛美歌が歌われ、聖書が読まれ、説教や祈り、献金があります。
この礼拝は通常、プログラム(式次第)に沿って進められていきます。

プログラムには本来一つ一つに意味があるのですが、私たちは習慣の中でその意味が見失われてしまい、形骸化されていってしまうということがしばしばあります。

そこで、今回は「前奏曲」に注目したいのですが、礼拝の前奏は楽器の奏楽のみで行われるゆえに、礼拝前の導入やBGMのように思われているということがあるように思うからです。
そこで、改めて「前奏曲」とは何なのか、その意味付けを考察していきたいと思います。

具体的に、礼拝前奏曲として奏楽されるJ.Sバッハが作曲したコラール前奏曲BWV639を例に上げたいと思いますが、音楽的なことは専門の方々が解説をしていますので、礼拝の視点から考えていきたいと思います。

BWV639について

BWV639、日本語タイトルは「私はあなたを呼びます、主イエス・キリストよ」

日本語に翻訳された歌詞は以下のとおりです。

私はあなたを呼びます、主イエス・キリストよ、
私の嘆きをお聞きください。
この時、私に恵みをお与えください、
絶望させないでください。
おお、主よ、あなたが私に与えようとなさる
正しい信仰を保ちます、
あなたに生き、私の隣人に役立ち、
あなたの言葉を守るという。

原歌詞:J.アグリコラ(1526/27)

色々な方の演奏がユーチューブにあげられていますが、楽譜がついていたため、参考に以下の動画を添付したいと思いますので一度お聞きいただければと思います。


さて、この前奏曲を礼拝で聞いた時、何を思うでしょうか?

美しい曲だな、どこかで聞いたことがあるかも?と思われる方もいるかもしれません。あるいは、礼拝に備えて心を整えるために瞑想や祈りをしようと思われた方もいるかもしれません。

では、この曲が前奏に置かれることの意味はいったい何なのでしょうか?
音楽によって礼拝が始まる合図を送ったり、人々の心を和ませたりすることが目的なのでしょうか?

もし、これが礼拝を演出するための「美しいメロディー」と考えるならばそれでも良いのかもしれません。

が、ここにある意味を捉えるなら、
「なんとなく心地よい」
ということ以上に、より礼拝を礼拝として豊にし、成立することに繋がるのではないかと思います。


音ことばについて


ここで、少し脇道にそれますが
「音ことば」
について考えてみます。

バッハにおいては、音型や和音、調性、臨時記号(#、♭)、休止までもが、コラール(賛美歌)のことばの意味内容を表現するための「音ことば」となっている。「ことば」を「音楽」という言語に翻訳することがその差曲原理であったと言っても良いであろう。こうした作曲態度は、バッハに限らず、バッハより少し先輩であるブクステフーデをはじめ当時のドイツプロテスタント教会の作曲家に共通のものだった。そしてそれはコラール歌詞を持たないオルガン独奏曲にも用いられたと考えられる。(聖書宣教会聖書科・教会音楽専攻「教会音楽のひととき」プログラムより)

BWV639では、メロディー(主題)の下で上下に行き来する音階は、頭を垂れ祈る姿を表し、ベースの通奏低音は胸を叩く悔い改めの姿を表しています。それはまるで神に義と認められた罪人の祈りを想起させます。

一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神様、罪人の私をあわれんでください。』
                    (ルカの福音書18章13節)

聖書新改訳2017


繰り返しますが、礼拝の中でこの曲を聞く(聴く)ということはどのような意味があるのでしょうか?

もちろん、曲を聞いただけで全てを理解することはできませんが、そこにある歌詞やメロディに込められた意味を知ることで、会衆は奏楽者と一緒に心を合わせて神に思いを向けることができます。

特に、奏楽は礼拝の中であえて解説をしていくということがないため、取り残されたり、独り歩きしてしまうことがあるように思います。

本来ならその意味を深く理解し、伝えなければならない使命を負った一牧師として自戒の念を込めながら今記しています。


このように音においても意味を捉えることができるならば、この前奏曲を耳にしたとき、深みが出てきます。

なんとなく、きれいなメロディーという認識に終わらずに
そこにある歌詞と音ことばによって
この音楽とともに自分の心をしっかりと整えることができ、礼拝において見つめるべき焦点がはっきりとしてきます。

これは感覚や感情よりも理性を重視せよということではありません。
音楽は分析しながら聞くものではないでしょう。

メロディー、音楽もまた神が人間に与えてくださった素晴らしい賜物です。
私たちは音に自分の気持を乗せて様々なことを表現することができます。
これは人間にとってとても自然な営みだと思います。

だからこそ、礼拝においては単に自分の感情を爆発させるという独りよがりなものではなく、神の御心に沿った、神に喜ばれる音楽を奏でることを願いたいと思うのです。
感情と思考がばらばらにならずに一致することで、より礼拝が豊になるのではないでしょうか。


コラールについて

ここで少し「コラール」について触れたいと思います。

コラールとは、狭義には、ルターの宗教改革により礼拝の中で会衆が歌えるようにと整えられた母語(ドイツ語)の会衆賛美歌のことです。

賛美歌は、特別な者たちだけのものではなく、信仰により義とされた者たちが礼拝の中で共に同じ信仰を告白するために、また、礼拝だけではなく、日常の生活の中で「歌うことによってみことばを互いの心に根付かせる」ために、ルターは様々な工夫をしてコラールを整えました。これを教会の歴史の転換点として多くの賛美歌が生まれました。

ですから、今や賛美歌はよくわからない言語や特別な技法ではなく、信仰者たちが信仰の告白(表明)とみことばの理解のために用い、神を賛美する一つの手段となっています。

奏楽〜前奏について


礼拝奏楽について礼拝を司る牧師として大切に思うことは、奏楽者の技術の上手い下手や音楽性の好みというよりも、その人がどのような信仰をもって礼拝に臨んでいるかが大切だということです。

しかし、信仰があれば何でも良いということではありません。
しっかりと自分の行為に意識を向けることが大切だと思います。
今自分が何を求められ、何をしているのか、理解していることは非常に大切なことだと思います。
そうでないならば、自己満足になってしまうからです。

このように、歴史の中で特にプロテスタント教会においては、「聖書のみことばを互いの心に根付かせる」という願いの中で、聖書の真理を、救いへの感謝とともに歌うことによって告白する、みことばに根ざした賛美歌が歌われるわけです。

音楽、とりわけオルガンやその他の楽器には「雰囲気」を生み出すという効果がありますが、礼拝においてはこの雰囲気が奏楽者や会衆の誘惑になることがあります。

つまり、神のみことばではなく、人の喜び、好みが優先されてしまうことがあるからです。
また今日目にする賛美歌として歌われるものの中には、個人的な宗教感情のみを歌うものも少なくはないでしょう。
(個人的な楽しみの問題ではなく、ここでは公な礼拝において考えます。)
そのため、宗教改革以降のプロテスタント教会は、ロマン主義的傾向を取り除いてき、「響きがことばを食い滅ぼす」ことがないようにオルガンや楽器が主要な部分を占めないように取り組んできました。

それでもなお、礼拝の一部を楽器が担うということにはどのような意味があるのでしょうか?

歴史的には、長い賛美歌(コラール)で各節をそれぞれ会衆、聖歌隊、オルガンに割り振ることで冗長になることを防ぎ、音楽に意味や深みを与えてきました。

また、音楽的な才能がなかったとしても楽器に合わせて会衆が同じリズムや音階で声を合わせることができます。

このように、礼拝において楽器は会衆に仕えるためのものです。
だからこそ、楽器が合奏されるとき、本来会衆はその音の意味を理解し、あたかもその歌詞が実際に歌われているのと同じように捉える必要があります。

ここで奏楽者に課せられていることは、個人的、主観的な表現や音楽による自己目的な完全性でもありません。

会衆の代表者としてみことばを語ることです。

それゆえ、礼拝の一つ一つのプログラムは理解され、意味を失うことのないように目指す必要があります。
特に前奏曲のような楽器のみでその部分を担う場合に意味が失われ、「演奏」が独り歩きしてしまわないためにもです。

このように前奏曲は、礼拝が始まる前に会衆の心を喜ばせるサロンの音楽ではありません。また、礼拝の導入でもありません。
前奏曲からすでに礼拝は始まっています。
前奏曲によって礼拝に集められた会衆は主のみことばに心を向け、その音楽に合わせて神に賛美をするのです。

曲目の中には必ずしもコラールのように歌詞の無いものもあります。
そのような場合でも、どうしてその前奏曲がここに置かれるのか、その意味を問うことは最低限必要な作業であるように思います。

礼拝が形骸化しないために、また自己目的や自己満足にならないためにも。

本来キリスト教信仰は、感情に任せた盲信ではないはずです。
啓示と歴史に基づいた真理を聖霊によって認識させられるものです。


ここまで長文になってしまいましたが、なかなか普段の教会生活でここまでお伝えすることができないので文章にさせていただきました。

これは、奏楽者の前に信仰者を教育するために立てられた牧師が問われていることです。

奏楽や賛美歌、その全てを理解しているわけではありませんし、私自身、鍵盤楽器を奏楽することもできません。
それでも、少しずつでも、興味を失うことなく、敢えてここに携わらなければならないように思います。



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