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復活の朝を喜ぶ

2022年4月17日(日)イースター礼拝説教要旨

死によって死に勝つ

愛知県豊田市に妙楽寺というお寺がある。
このお寺には墓じまいによって不要になった墓石が境内に積まれている。
その数なんと2万基。

イースター(復活祭)が象徴するのは、不要になった墓

イエスが収められた墓は、復活によって不要のものとなった。
墓は生きている者を留めておくことはできない。

墓だけではない。
イエスによって、「死」そのものが力を失った。
イエスは死に勝利し、死を死に至らしめたのである。

このイエスを信じる者は、肉体の死は終わりではない。
死は通過点にすぎず、永遠の命に至るのである。

ぜひ、これを読んでいる皆様には、イエスの十字架と復活が自分にとってどのような意味を持つのかを一度考えていただきたい。
それは、一時時間を使って考えるのに価値あることである。


キリスト教の信仰とは

キリストの生涯、十字架、復活は地上で起こった歴史でもある。
今から約2000年前のイスラエルという土地での出来事である。

中でも「復活」は科学的に証明することはできない不思議な出来事である。
よって、それは信じることはできない、と考える者も多い。
確かに、多くの人々がそれを否定しようとしてきた。
教会の中でもそれをなんとか理由付けようとして、それゆえに「異端」も起こった。

しかし、復活は科学的には証明できなかったとしても、聖書によって多くの証言が残され、矛盾もない。
現代においても「証言」は有益な証拠となる。
何よりも、聖書による神観を保つならば、それは非常に納得のいく出来事でもある。

キリスト教信仰は、「イエスの復活」が要となっている。

使徒パウロはこのように告げる

キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
私たちは神についての偽証人ということにさえなります。
(中略)
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れなものです。
(コリント人への手紙第一15章14~20節)

聖書新改訳2017

では、復活という通常は信じられないようなことを信じるのが信仰かというとそうではない。
信じられないものを無理やり信じて、心安らかになり、それをもって救いということではないのである。

または、イエスはいまだかつてない超人的な復活を遂げたので神として信じるに価値があるということでもない。

キリストの生涯、十字架の受難、復活は歴史的なことである。
それは信仰がなくても受け入れることはある程度出来る。
しかし、このキリストの生涯、十字架の受難、復活が私のためであったと信じることは信仰の領域となる。


神の裁きとしての死

ここで、キリストの十字架の死について再確認したい。

マタイの福音書27章には、十字架の出来事が記録されている。

キリストが十字架に架けられたその日、
金曜日の昼の12時から午後3時まで闇が全地をおおった。

午後3時ころ、イエスは絶命の直前にこのように叫んだとある。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。
                     (マタイの福音書27章46節)

聖書新改訳2017

イエスの死は肉体の死ということではなかった。
イエスの死は、神に見捨てられるという裁きの死であった。

私たちはこれまで、また今も神の恵みの中に生きている。
様々な災害や不幸はあるものの、神に見捨てられるという究極的な裁きはいまだかつて誰も経験していない。

そのような私たちにとって、
神に完全に見捨てられるという状態を理解することは難しい。
難しいが、想像するにそれは究極的な闇の中に置かれるということなのだろう。
このような私たちには想像を絶する苦しみをイエスは経験されたのである。


復活の朝の出来事

イエスが墓に葬られた時、イエスのことばを思い出したのは皮肉なことにイエスを十字架につけた敵対者たちであった。

イエスは生前、自分は十字架の後、三日目によみがえることを繰り返し告げていた。

弟子たちはこのことばを忘れ途方に暮れていたが、敵対者たちは覚えていたのである。

だから、彼らは弟子たちが墓からイエスの遺体を盗み出して復活を演出しないために、入念な対策を行った。
(マタイの福音書27章62~66を参照)

イエスの墓にはローマ軍の兵士が配置され、そこにはローマの封印がはられた。

ところが、十字架の死から三日目となる「週の初めの日(日曜日)の朝」イエスはよみがえられた!

屈強はローマの兵士をよそに、天使は墓の石を脇に転がし、その上に座ったのである。
それはまるで、この世の権力、力、常識、恐れ、それらすべてを難なく覆し、当たり前のように、平然と行われた。
神の御業とはこのように行われる。

この出来事に、世界最強を謳われたローマ兵は恐れのあまり「死人のようになった」と記録されている。

この後、敵対者たちはこの出来事が広がらないようにと、策をめぐらしたのである。
(このことについてはマタイの福音書28章11~15節を参照)

イエスを十字架につけた者たちは、奇しくも復活の最初の目撃者となったのである。彼らこそ誰よりも復活を真剣に信じた。
しかし、彼らはイエスの救いを受け入れることはなかったのである。


人類の代表としての死と復活

イエス・キリストはこのように十字架に死に、復活したのである。

そして、この出来事は全ての人に関わる出来事でもある。

イエスの十字架の出来事は、旧約聖書のによって預言されたものであった。
すなわち、神によって約束されたものである。

それは、一個人としての死ではなく、人類の罪の贖いという目的をもつものである。

イエス・キリストは、人類が経験し得ない、究極的な神との断絶、本当の死を味わった。
それは、私たちが最終的に経験することになる神の裁きである。

この死が父なる神に受け入れられたことの証拠として復活したのである。

聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
                       (ローマ人への手紙1章4節)

聖書新改訳2017

もし、復活がなければイエスは本当に人類の代表として死なれたのかどうか確証はない。
そのように自称して死ぬことは誰でもできるからである。

本来ならば、私たち一人ひとりが受けなければならない神の怒りを、キリストは避雷針のように一身に負われ、このことで神の裁きの怒りは満たされ、その証拠によみがえられたのである。

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。
                       (ローマ人への手紙4章25節)

聖書新改訳2017

繰り返すがキリスト教信仰とは、
イエス・キリストの立派な教えを見習って、心安らかに生きるというだけの宗教ではない。
まさにキリストを信頼し、キリストの命をいただく信仰である。

キリストは、復活し、今も生きて、聖霊によって今も私たちとともに歩み、私達を導き、私達を生かしてくださる。

後に弟子たちは、神の御業の目撃者、証人としてこれを伝える使命が与えられた。
今、私たちはこの弟子たちの証言によって、また神の聖霊によって復活の出来事を信じ、それが私のためであったことを認めさせられ、今もこの出来事を記念するために集まり続ける。

日曜日の朝、主イエス・キリストを思い出すごとに、罪の縄目からの解放と永遠の命の希望を喜ぶのである。

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、・・・
                (コリント人への手紙第一15章3~4節)

聖書新改訳2017

アーメン。









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