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はじめまして。惺ゆり(さといゆり)と言います。今はメルヘンイラストを描いて仕事をしています。

私の2度の幽体離脱、パラレルワールド、白くて怖い〇〇体験
15年のモラハラ、家の火事で全てを失った事、結婚、離婚、再婚を得て
今があります。

プロフィールを見てもらえば分かるように
理不尽にも心をグサグサと刺され、えぐられる思いや体験をしてきました。
それに立ち向かえず何もできなかったけどこれだけは!自信持てる事がある。
人という個としての存在を、踏みにじる事はしない!!
そして、心だけは綺麗でいよう!という志でイラスト描いてます。
『汚れの知らない純粋な子供のような心』が私はトキメキます。
私は、私が“ときめく”イラストを描いています。
私の心とイラストは繋がっています。
決して神絵師でもなければ有名でもない私ですが、どうぞよろしくお願いします⭐︎

全ての詳細はこちら↓



📗生まれる前からの記憶を持つ私📗

私が生まれた時にまでタイムスリップ🕰しちゃいます。
母親のお腹の中に私はいたが、ある日幽体離脱を経験します。
そんな事あるんかい!?とお思いでしょうがなぜかなぜだか記憶にあるんです!
無理に信じなくても良いです👍

それは…祖母が妊婦の母親をカメラで写そうとする時に起こりました。
この時母親は臨月?と思うくらい大きなお腹をしていました。
私は母親のお腹から”にゅ〜っ”ってこの世界に一旦出て
祖母の所へ行って母親の妊婦姿を見てるんです。
祖母がカメラのシャッターを押した後
また”にゅ〜”って母親のお腹の中に戻っていった嘘みたいな話👀

その時の感じる空気感の肌感覚と母親と祖母の声や姿、家の玄関に立ってる位置、祖母と母親との距離、細かいところまで鮮明に憶えています。
その後の記憶は一旦途切れます。
それから間も無くして私は誕生しました♫


無事に産まれた私。
記憶は約生後半年くらいになる頃
ベビーベットで寝ていました。
と思ったらまた魂が私の体から抜けていった。

天井に向かってスーッと上まで上がり
天井には当たらないスレスレのところで一旦止まった。
そして、部屋を時計回りに一周すると
ふーっと私の肉体に戻っていった。
時間にして1分も立っていなかったと思う。

頭上から見下ろして見る風景は
父親と母親が2人だけいて何やら会話している感じだった。
会話の内容までは聞こえなかったが、何気ない普通の会話のように感じた。


そこからの記憶はまたなくなります。


📗産まれてから幼稚園に通うまで📗

前回までの記憶から、いきなり飛びます。
私は、家族の住む家で育ちませんでした。
では、どこで❓
はい。それは今で言う理由あって親元で育てられなかった子供達が集団で生活する支援場所みたいなところです。

その当時は 「乳児園」と呼んでいたみたいです。

なぜ、母親がいるのに乳児園で生活することになったのか?を
書きたいと思います。

私には四つ上の姉がいます。
母親にはこの姉の父親であるAさんと結婚していました。
姉が産まれてすぐにAさんは交通事故で亡くなったそうです。
それから母親は祖母の言われるがまま、再婚をすることになったようです。
それが、私の父親です。

母親はAさんを亡くして、心の傷が癒えぬまま再婚をさせられたのだと推測します。
かなり精神的におかしくなっていたようで鬱だったと聞いています。
そのせいで、母親は私を育てることができず、私を乳児園に入れたのだと聞きました。


姉は祖母が面倒を見ていたようです。

そんな理由で、私は親元を離れて乳児園で生活をしていました。
ここでの生活はとても辛いとしか言えない環境でした。
乳児園といっても、半分病院みたいなもので、なんの飾り気のない部屋に
ベッドがあるだけでした。

私の他にも私と同じ年齢くらいの子供達が数人いました。
一番嫌な思い出は、毎日私を虐めてくる男の子がいました。
私が何もしていないのに、虐めてくるのです。
もう毎日が辛すぎて、早く家に帰りたい!!といつも思って過ごしていました。

時々面会にくる父親と母親と姉に会うたび、やっと迎えに来てくれたのかと
期待しては裏切られる の繰り返しでした。

こんな生活が約3年くらい続いたと思います。
私はやっと家族の住む家に帰ることができました。

それからは幼稚園に通うことになります。



📗幼稚園生活から小学生まで📗

やっと父親と母親、姉と暮らせる日がやってきました。
記憶は断片的ではありますが、覚えてることを書きます。

幼稚園生活はまあまあ楽しかったです。
怖い先生もいたけど、お友達とおままごとをよくして遊んでいました。
私がお母さん役で、友達がお父さん役という設定が多く
いつも仕事から帰ってくるお父さん役の友達が、「ただいま〜」と帰宅するシーンから
始まるのです。笑笑
そして、「おかえり〜」と言って食事をだす料理が
いつも決まって納豆だったのを覚えています。

なぜ納豆?なのかはその当時の私にしか分かりませんが、これは憶測です。
納豆を食べる前って必ず混ぜ混ぜしますよね?
あれがしたかったのだと思います。
当時の私は納豆が食べれなかったのですが
あの混ぜ混ぜする行為は憧れに近いものがありましたから。

この頃に習い事をしたのは、オルガンでした。
でも、どうやら私にはその才能はなかったようです。笑笑

この頃、私の唯一の楽しみが母親と2人で家の近くに勤める父親の会社まで歩いて迎えにいく事でした。夜空に光る無数の星と月を見るのが大好きでした。この経験が今のイラストの原点にもなります。


なんだかんだと幼稚園を卒園し、小学生になります。
この頃から再び霊体験をすることが増えました。

霊体験以外は普通の小学生だったと思います。
この時期には、そろばんを2年生から6年生頃まで習っていました。
このそろばんのおかげで、今でも暗記は得意です。

第二の霊体験の話を書いて行きます。

霊体験その①
パラレルワールドの世界を体験する。


パラレルワールドとは?
パラレルワールドとは、ある世界から分岐し、それに並行して存在する別の世界を指す。並行世界、並行宇宙、並行時空とも言われている。 そして、「異世界」、「魔界」、「四次元世界」などとは違い、パラレルワールドは我々の宇宙と同一の次元を持つ

ウィキより

あれは、私が小学校4年生位の時だったと思います。
私は仲の良い女の子の友達と家の近くで4人くらいで遊んでいました。
私の家は国立の大学が目の前にあって、昔は誰でもキャンパス内に入ることができてたんです。
だから学校のキャンパス内をまるで自分ちの庭のようにして、毎日遊んでいました。
そこでパラレルワールドを体験したのです。

いつものように4人で遊んでいました。
私が足元を見て上に顔をあげた一瞬にして起きました。
そこで見る景色は木も緑も無いコンクリートの建物だけの
白黒の世界が広がっていました。
と同時にそばに一緒にいるはずの友達も消えていました。
「あれ?みんなはどこにいったの?」
心の中で思いました。

子供の頃だったけど、明らかに何かがおかしいって思いました。
だって友達と一緒に行ったキャンパス内には、木の緑もなくなっていて
コンクリートの建物だけの殺風景な白黒の世界
それに忽然といなくなった友達は、どこへ言ったんだろうって
全く不思議でしかありませんでした。

何というか怖いという感情とかもありながらも、こんな所もあったのかな?という
ある意味受け入れている感情もありました。
そうこうしてると
また一瞬にして元の世界に戻りました。
友達も普通に遊んでいました。


不思議な体験でした。
私はこの日一緒に遊んでいた友達にも、何か言っちゃいけないような気がして
話しませんでした。

霊体験②
4つ上の姉と遊んでいる時、私はトイレに行きたくなりました。
その日は、大学の体育館で遊んでいました。

私「ちょっとトイレに行ってくるね」
と姉に言い、トイレに行きました。

体育館にあるトイレはちょっと薄暗い場所にあって1人で途中まで行ったのですが
やっぱり怖くなって、引き返し、姉に「ついてきて欲しい!」と言いました。
でも、姉はついて来てくれませんでした。

漏れそうだったし、1人で行くことにしました。

私が用を足そうとすると
さっきまでトイレだった部屋が、いきなり真っ暗な世界に変わりました。
急にトンネルの中に居る感じと言いますか、とにかく真っ暗なんです。

真っ暗な中にトイレの便器だけが浮いて見えました。
怖いと思うけど 漏れそうなのと焦っている自分がいました。
そしてその真暗な先の見えない空間から
何かこちらを見ている白い人が見えました。
今も書いていて思い出すだけでゾッとするので
これを読んでいる方のご想像にお任せします。

その出来事を姉に話しても、信じてもらえませんでした。

大きな霊体験はこの2つですが、細かいことは色々ありました。
ちょっとした予知なども普通にできてましたし。
でもこれって私にとっては普通のことだったので、仲の良かった友達に1人だけ話した事が
あります。
その時の反応で、私はこれは言ったらまずい事なんだと分かり
それから、またしばらく封印することにしました。


プライベートでは、貴重な体験を沢山したけど
学校では至って普通の学校生活でした。


📗中学校〜高校卒業まで📗

この頃になると、霊感はピタッと止まったように思います。
なぜだか分かりません。
私は、産まれる前の幽体離脱のことも、小学生の時のパラレルワールドに行った世界の事も
忘れていました。

部活は憧れのサキソフォンを吹きたいという夢を持って吹奏楽部に入りました。
見事外れてしまいました。
私はクラリネットを吹くことになり、3年間頑張りました。
吹奏楽部って厳しく、その上独特のルールがありそれを守らなかったこともあって
怒られることもありました。
そのルールが、黒い靴しか履いてはいけないっていうルールでした。

変なの笑

高校は市立の女子高校に行きました。
理由は、姉が行ってたからという何も考えてなかったなーって
少しだけ後悔あるかもです笑笑

部活は、美術部に入りました。
もともと、絵を描くのが好きで高校の美術部で油絵も描けると知って
即入部しました。
コンクールにも出品して賞もいただいたりしました。
高校生活の3年間だけだったけど、絵の基礎を学べたように思います。
これが、後々今の仕事に影響していきます。

幼稚園から住み始めた家では、過去の出来事みたいな摩訶不思議な奇妙な
出来事は起こりませんでした。というか、忘れていました。

父親が厳しいというのは多少あったけど、それはよくある話だと思います。

この頃、お別当やさんでバイトを始めました。そこのおばちゃんが
親切丁寧に教えてくれて、唐揚げや卵焼きを作れるようになりました。
この事も、後々とても役に立ちました。
玉子焼きと唐揚げは得意です!!。
ありがとう! お弁当屋さん。


📗就職〜結婚するまで📗

私が就職する時代は、雇われて働くのが一般的で
大学に行かない人は、就職先を選び放題っていう時代でした。
今みたいに、好きなことを仕事にする時代ではありませんでした。

とは言っても、社会人になるってことは初めての事だし、自分に向いている仕事なんて
分かりませんでした。
初めに就職した仕事先は、飛行機の部品関係の製造会社で、部品を拡大鏡で見て
半田付けをする作業を毎日毎日していました。
私には合わず一年で辞めました。


一人暮らしを始めたのは21歳の時でした。結婚式場や販売業、不動産業を経験し自分に合う仕事を探していました。
縁あって知り合った元夫と結婚を機に、生まれ育った地を離れる事になりました。
と言っても、隣の県で普通に生活圏内なので、仕事やプライベートで誰もが
簡単に行き来出来る距離です。


ここからがまた壮絶な結婚生活を送ることになります。


📗結婚した相手はモラハラ夫だった📗

(元モラハラ夫の洗脳が私の思考と体力を奪っていき、鬱状態にまでなった話です)

結婚をしたのは29歳で、もうそろそろ結婚を意識した時期でした。
周りの友達もどんどん結婚していくし、焦っていました。
それまでに付き合ってきた人で、結婚を意識する人はいませんでしたが、
その頃出会った元モラハラ夫との出会いから結婚までのスピードは速かったです。
共通の知人の紹介で知り合い、優しそうな雰囲気で気がきく人でした。
見た目はおとなしくて優しそうな雰囲気をもっていました。
年齢は10も上でした。


見た目はかっこよくないけど物腰の柔らかいところに惹かれて
お付き合いをする事にしました。
自然と結婚を意識するようになりましたが、仲良くなっても
元モラオの態度に何か違和感を感じるようになりました。
とは言え、30歳にまでには結婚したい!!と少し焦っていた私は”気のせいかな?”
と思っていて結婚を決意しました。
お互いの家にご挨拶をする段階で私の父が猛反対をし、結局結婚式に出席してくれませんでした。
それは、悲しかったですが、子供ができたらコロッと変わるだろうと思っていました。


📗結婚生活で知る元モラハラ夫の本当の顔📗

実は、結婚をする前に発覚したことがあります。
元モラハラ夫には、消費者金融からの借金が300万円あったのです。
この時、元モラハラ夫の父親が反対をしたのですが、すでに結婚を決意していたこともあって、「これから一緒に生活をするんだし、一緒に頑張っていこう!」という話し合いのもと
結婚をすることになりました。
元モラハラ夫の父親も、借金息子と結婚をしてくれる私の事を喜んで受け入れてくれて、結婚費用を全額払ってくれました。

これが結婚の始まりでした。


徐々に元モラハラ夫の本当の顔が見えてきました。


①私が独身時代から愛用していたドレッサーを勝手に捨てられる
②私の独身時代の時に撮った思い出の写真を勝手に燃やされる
③家にお金を一円も入れない
④思い通りにならないと暴力を振るうこともある(顔を叩かれた)
⑤昨日言った話と今日言った話が違う事が多いので話し合いにならない
⑥何でも人のせいにする
⑦包丁を向けられたことがある
⑧外面と内面がまったく違う
⑨勤続年数三十数年ずっと平社員なのに家では威張り散らす
⓾家にお金を入れない事を文句言ったら、金運のお守りを買ってきた
⑪何が良いかと聞かれるから答えるけど、結局は元モラハラ夫の思い通りにしかしない
⑫自分(元モラハラ夫)にはいいものや高い物を買うが、人には安物しか買わない
⑬携帯電話の数百円の修理の保険には絶対入らない
⑭ちょっとした言い合いの後、1ヶ月近く無視される
⑮あぐらをかくと、「女性らしくない!」と怒られる
⑯元モラハラ夫の思う服を着ることを強制される
⑰勝手に大きな買い物をする→これも借金
⑱光熱費とお米代は元義父が支払っていたが、元モラハラ夫は何も払わない(家は元義父の持家)
⑲元モラハラ夫の思う女性像から外れると、嫌味を言ったり育ちが悪いと教育される。
⑳「お前には帰る家も無いから、俺が教育する」と言われ、俺様の言う事聞け!!の圧がいつもある。
㉑子供の名前を勝手に決めて、役所に勝手に届けてしまう
㉒私の意見を言えば、口答えをしたと怒られる
㉓「何がよくないの?」と聞いても、「そんな事も分からないのか💢」「自分で考えろ!!」「だからお前はダメなんだ」と馬鹿にし不安を煽る
㉔怒るポイントに一貫性が無い
㉕散々私をバカにし罵倒するのに、夜の営みは要求してくる
㉖せっかちで待つことができない為、振り回される。そのくせ、私には我慢させる
㉗「怒らせるのはお前のせいだ!」は口癖のように言う

㉘離婚する3年前くらいの頃には、食事も支配するようになる


上げたらキリがないほどで、今思い出しただけで吐き気します。
①〜③、⑧は、結婚直後に発覚しました。

私も負けじと元モラハラ夫の言ってることはおかしいよ!と言うけど、
絶対に倍返しされるのと、論点を変えて言いくるめようとしたり、ひどい時は暴力を振るうことも。わざと大きな音を立てて二階へ上がったり、怖くて萎縮してしまうのです。

泣いても通じない、いくら私が正しいと思うようなことを言っても通じない、
理屈が通じない

こんなことがあっても、自分がおかしいんじゃないかって思って
私がちゃんとすれば、元モラハラ夫は怒らず、優しくしてくれるんじゃないかって
思ってたんですね。
でもそれは夢の夢でした。
もちろん、優しい時もあったのと子供は可愛がってくれていたので
モラハラだと気付くのがかなり遅かったです。

元モラハラ夫と離婚できた話は、また別の欄に書いてます。


📗初めての子供〜勝手に名前をつけられる〜📗

相変わらず家に1円もお金を入れない元夫のことを義母に相談したら、
母親に言われたのか、今月は『これだけ』と一万円を出してきました。
たった一万円?!これで、生活しろと?
誰が補てんしてると思ってるのか?!
そんな怒りの気持ちがありました。家は持ち家で、電気、ガス代、水道代半分
は義父持ち、その他の生活費は、私と義母が出している。
『今月はこれだけ』と申し訳なさそうに出してきたけど、この時は元々借金もある身だしなかなか大変なのかな?とありがたく受け取りました。

私は知らない土地で、同居して元義両親とも仲良くしていくのに精一杯だったのです。
そのうち、借金も無くなるだろうしいつまでもこんな事は続かないと思っていました。納得いかない事も、ありました。
月に一万円しか出さないのに、毎晩自分が飲むビールだけは買ってくるのです。
それも、何も言わず我慢していました。そのうち、子供ができました。
子供が産まれたら、私が働けなくなるからと少しずつ貯金をしていました。


元モラオは独身の時から草野球をしていて、毎週ではないけど私も時々見に行ってました。
この、野球中に元モラオは滑り込みの時に足を捻って骨折をしてしまいました。そのせいで、数ヶ月入院する事になりました。初めは、心配だっし毎日のように見舞いに行ってましたが、そのうちお腹も大きくなり毎日のように見舞いに行くのが大変になってきました。入院中のわがままがひどくて、『本買ってきて欲しい!』『飲み物が欲しい!』とか毎日要求してきました。流石に毎日ともなればお金もかかるし、何より私は妊婦の身で私の体がキツくなって断る事も増えました。すると逆ギレして怒るのです。

怒られるのが嫌なのと喧嘩もしたくないから、何でもいうことを聞いていたと思います。知らぬ間に典型的な共依存関係をつくっていました。

忘れもしないことがあります。子供が無事に産まれたのはいいのですが、私が退院するまでに子供の名前を勝手に決めていて、既に役所に提出していたのです。見舞いに来た元モラハラ夫は、私たちの縁を結んでくれた知人のところに行って、娘の名前を決めてきたというのです。この知人が姓名判断も出来るとのことだったらしく元モラハラ夫は私に内緒で出産の報告と名前の相談に行って、名前を占って決めてきたそうです。全てが納得出来ず、「それはないんじゃないか💢」ってもう反対をしました。そこで義母に電話をしてそのことを伝えましたが、「そんなことで文句言うな」と怒られました。元義母の本性をこの時初めて知りました。

相談する事も相談しないし、勝手に名前も決められ
勝手に役所に届けられ全てが勝手すぎて、それを元義母に
伝えても怒られる。
私は病院のベッドで1人泣きました。それでも、産まれてきて
まだ1週間も経たない我が娘を見て、泣いてはダメだと思い、気を取り直しました。

出産後半年までは育児に専念しました。相変わらずお金を入れてくれることはなく入れても一万円。生活は、私の貯金とのと義両親のおかげで成り立っていました。たまにくれるボーナス時期の3万円が大金のように思えて、日々の生活費をもらえないという異常事態も異常だと思えないくらい麻痺していました。

生活は元義両親のおかげで生活はできているわけだし、困ることはありませんでしたから。ただ、私が自由に使えるお金はほとんどありませんでした。出産後、半年で働くことにしました。

働くっていうことは、子供を保育園に預けないといけないので、その保育園代は私が支払うことになりました。働く目的は、家の為でもあります。それを知ってか知らずか、元義母は保育園に連れて行く長女を目の前にしてこう言い放ちました。

「保育園に入れるのはかわいそう」だと。

あなたの息子さんがしっかり家にお金を入れてくれれば、保育園に入れることもなかったんですよ!そもそも、生後半年から保育園に入れることが可哀想だなんて私には意味が分かりません!と言いたい気持ちを抑えました。

あなたの息子に勝手に名前をつけられた時、私の気持ちを理解してくれなかったこともあったし、今回の件も元義母の本性を知ることになりました。


📗宗教📗

モラハラ夫の悩みを宗教の人達にするとモラハラを助長させるテクニックを
教えてもらう事になります。まさかこんな事になるとは、、、。

私には四つ上の姉がいます。この姉も偶然私と同じ市内に住んでいました。
私が結婚する時に唯一身内で結婚式に出席してくれました。
頼りになる存在でしたが、この姉が私を苦しめるでした。

結婚してから元モラハラ夫の相談をよくするようになっていました。
ある日、姉が「某宗教団体」に入団していたことを知ります。
言葉巧みに私を勧誘し、宗教団体だとは知らず、何度も足を運んでいました。
人の弱みにつけ込んでって話はこの事だと思います。

この宗教団体のところに行くと、みんなが手厚く優しく接してくれるのです。
知らない土地で、モラハラする元夫のことで悩んで枯れかけた私の心は
水を得た魚のように潤うのでした。(今考えるととても恐ろしい所です)
姉は私の為に一生懸命にしてくれるし、悩み事も解決するかも!!と期待して
いつの間に私は、週2ペースで通うことになるのです。

その時に使ったお金は、30万円くらいだったと思います。今思うとアホくさいです。印鑑も買いました。とても馬鹿なことをしました。

ここの宗教団体の教えは、「男性を立てる」ことをベースにしています。
男性を立てることで、家族は幸せになり、そうする事で
親である私たちが亡くなってからも繁栄し、子供達はずっと幸せになれますよ!!という簡単に話すとこんな教えです。

私がモラハラで悩んでいるのに、この宗教団体で教えてくれる解決方法は、モラハラを助長させてしまう方法だったのです。
自立もできていないモラハラ夫に、「いつもありがとう」とか
モラハラをするような男性を立てる行為をすることは、勘違いさせ甘やかせることになります。
実際に、私自身に全く非がない!なんて思ってもいなかったし、直せるところは直して誰もが幸せに思える家庭を築けるよう努力をしようと思って通い始めたのに、その努力は幸か不幸か報われることはありませんでした。

解決しないと気づいてからは、一気に冷めてしまい姉の行為も鬱陶しく感じるようになりました。(その後も姉のしつこい勧誘は続きましたが。)



📗癌が見つかる📗

3人目の子供が出来て、毎月の定期検診の時に、子宮頸部上皮内癌が見つかります。

妊娠中の10ヶ月間の間任意で癌の進行具合を検査してもらいました。生まれるまでに3回検査したのですが、検査する度に進行が進んでいました。出産後、早く手術をしなければ癌を増殖させてしまう為
手術の度合いが上がり大手術になるという恐れがあるという事でした。妊娠中に癌の進行具合の事は理解していました。癌の進行状況を理解していましたが、弱音を吐くことはありませんでした。ただ一度だけメンタルがどうにもならなくて元モラハラ夫の前で泣いてしまった事があります。はっきりとした言葉は覚えていませんが、「癌が怖くて手術しても治るかどうか不安でしかなくて辛い」そんな事を伝えたと思います。
この時の元モラハラ夫の対応は「鬼」かと思いました。

『母親がそんな弱くてどうするんだ💢』
「そんなんで、母親にはなれないぞ💢』怒鳴られ、私の気持ちに寄り添った言葉はかけてもらうことはありませんでした。

私は、泣きたい時に泣いたらだめなんだ。 
辛いと思った事を正直に伝える事もいけない事なんだ、その時はそう思いました。元モラハラ夫の言う通りかもしれない、これから産まれてくる子供の事を考えたら母親は強くなければいけないのだと、本気で思っていました。本当の意味での「強さ」と言うものを知らない時でした。





📗火事が起きるまで📗

子供のこともあって、元モラハラ夫が土日祝が休みの為、働き方を変えて正社員を辞めて朝から午後2時までの土日祝も働けるパートの仕事をしていました。子供は幼稚園に通わせていました。

パートの収入でも、生活は元義両親のおかげで生活はできているわけだし、困ることはありませんでしたから。ただ、私が自由に使えるお金はほとんどなく、子供のために使うお金は貯金を崩しながら生活していました。

長女が産まれてから子育てがきっかけで、再び絵を描くようになりました。
色鉛筆で描くメルヘン画です。
友達の勧めもあって、小さなカフェで個展の開催することが増え、そのおかげで
働きながら描いた作品は、5年間で約50点近くありました。(絵のことについては後に書いています)


📗家が全焼📗

1階で夕飯を済ませて、食器を洗っている時でした。
結婚してから12年後の5月、誰もいないはずの2階から何か物音が聞こえてきました。
おかしいなと思い、2階に上った元モラハラ夫が部屋の戸をあけると
パチパチと部屋が燃えていたそうです。

まだ今なら消せるかも!とやかんやバケツに水を入れて
部屋にぶっかけました。
でも、そんなレベルの火ではなく、どんどんと燃えていきました。
もう手に追えないと誰もが判断しました。

それを知ったのんびり屋の長女のとっさに取った行動には、今でも感謝しています。
近所を「火事だ!!助けてー」と大声で走り回ってくれたのです。
その間だったと思います。私は急いで119番通報をしました。
通報をした後、義両親を非難させ子供達は私と一緒に真向かいの近所の方のところへ非難させました。
長女のおかげで、近所の人たちが続々と出てきてくれました。

そして、外にある消火栓の消化器で火を消すこと数人でやってくれました。
ただ普段使ったことがないので、かなり手間取っていました。
その間、家はみるみる火の勢いを増していて、私はなんとも言えない感覚に襲われました。
怖いとか、家がなくなる悲しさとか、そんな感情はなくて
現実なのか、夢なのか、それすらも考えれない感覚です。


そんな時、私のそばに居た長女が、私にこう言いました。
「お母さん、お母さんが沢山描いてきた絵が燃えちゃうよ」と。
なんでこの子はこんな状況になってるのに、私の絵の事心配するの?と
驚きましたが、その優しさに嬉しくなリました。
「こんな時に何言ってんの!、〇〇(娘の名前)の大切なものも無くなっちゃうんだよ?お母さんのことは心配しなくていいよ!」
長女「だって、お母さんが一生懸命描いたのに…」


目の前で燃える家を見ながらの娘との会話は、今でも忘れられません!。
(この火事の6年後に、親子でイラスト展を開催する事になるとは、誰も想像していませんでした。)


築30年近くの古い家は、消防団員の消火の努力も虚しく
全焼してしまいました。
家族全員すぐに逃げたので誰も怪我はなかったのは幸いでした。


その日は、真向かいのお宅で寝泊まりをさせてもらいました。

あくる日、変わり果てた家の中に携帯を取りにいきました。
火事の当日、運よく衣替えの途中で、クローゼットから出していた子供達と私の洋服で山積みにしていたので、その下に携帯はありました。
携帯は、動いていました。
見ると、メールや着信が沢山きていました。
それからの記憶は、しばらくありません。途切れ途切れの記憶しかありません。


📗家が全焼してからの生活📗

家が全焼してからの生活は一変しました。
記憶は途切れ途切れの部分があるので、時間の前後した内容になるかもしれません。

たまたま嫁いだ先は、母家と離れの家がありました。
燃えた家は母家でした。義両親の住む離れの家は燃えずに済んだため、私達はアパートなど借りる事はなく、その離れの家でしばらく生活する事になりました。
その点はとても助かりました。

全焼からまもなく、消防署からと警察からの事情聴取が始まりました。
大人も子供も関係なく警察署に出向き、尋問が続きました。
実はこの事情聴取が一番メンタルをやられたかもしれません。
まだ幼稚園に通う次男と小学校に通う長男には可愛そすぎました。
家には毎日消防署の人たちが2、3人は来ていて、事情聴取の毎日です。
何か悪いことをしたような気分になり、怒りみたいな感情さえあったのを覚えています。

生活は…というと。
毎日食べる食事は、なにを食べていたのかあまり思い出せません。
火事のあくる日の朝食は、消防署からの支援されたお弁当でした。
もう一つ覚えているのは、ママ友が働いてる惣菜屋さんからもらったお弁当も覚えています。
後は…んー、ほんとに覚えていません。

この頃、魚を焼くのも怖かったし、テレビで流れる火事のニュースも見ることができませんでした。

子供達の遊ぶおもちゃも無い、
着る服は、全て貰い物、
お風呂は、しばらくは銭湯に通いました。途中から毎日銭湯に通うのは、お金もかかるので、家の駐車場にレンタルの風呂を設置して入っていました。
子供達の勉強道具は、多分支給されていたと思います。

この時私は、子供達の心のケアに努めていました。
今後の不安も計り知れないくらいありました。
でも、親である私が弱音を吐くことができる状況ではありませんでした。

しばらくそんな生活が続き、いよいよ新築の家が建ちます。
新築の家は子供達はとっても喜びました。
それからは、やっと落ち着いたように思います。
その頃からまた元夫のモラハラが発動しました。



📗モラハラ発動〜食べる物まで支配するようになった〜📗

新居に住み始め、全てが新しいってのは本当に舞い上がる気持ちになりました。
子供達も嬉しそうだし、今まで色々あったけどこれからは明るい未来が約束されたように感じました。
ただ新築で建った家は、元義父が設計したもので、私達の意向は全く無視した家になっていました。
子供達の部屋はありません。
もちろん私の部屋もありません。
そのくせ、客間にはとても良い材料で造ってあって、お金かけてるなって誰もが思う造りになっていました。

一階は、ダイニングルーム、その隣に六畳の洋間が一部屋
客間が一部屋、それに並んで六畳の畳の部屋が一部屋、バス、トイレ、玄関
二階は、十二畳くらいの洋間の部屋が一部屋だけでした。

義祖父から厳しく言われたことがあります。
この部屋のうち、一階の客間とそれに続く六畳の部屋は使わないようにとのことでした。
ということは、使える部屋は二階の部屋と六畳の洋間のみです。
子供は三人います。元義父に逆らえるのは唯一元モラハラ夫だけなのに
この夫も親の言いなりだから、全く役に立ちません。
せめて二階の部屋を二部屋に設計して欲しかったです。
義両親は離れに家もって部屋も充分にあるのに。のに

設計図を見せてもらえるわけではなく、例え見せてくれたとしても
私たちの意見を聞いてくれる人ではありませんでした。
元モラハラ夫のモラハラぶりが凄すぎて、元義父のことはあまり書きませんでしたが、この人もなかなか厄介な人でした。


火事を経験した私は、家があるだけでもありがたい
その時はそれしか思えませんでした。
後々この新築の家の作りが原因で離婚を加速させたと思います。

相変わらず家にはお金を入れてくれません💢
その代わり、食品を毎日買ってくるようになりました。
それは元モラハラ夫の食べたいもの、選んだものに限ります。
何が食べたいのか?と聞くくせに、結局は色々難癖つけて言った通りのものは買ってきてくれません。
挙げ句の果てに飲みたくないビールまで買ってきて
“俺はこんなに尽くしてる!!”アピールはすごく、人の気持ちなんてお構い無しです。
気付けばとうとう、私達が食べる物まで支配するようになりました。
私がパートで働いたお金は、子供の学費で消えていきます。たまに買えるのは”お菓子”とちょっとした生活必需品でした。

元モラハラ夫が、毎日の食事の買い物をしている姿を近所の人が見たら、きっと私は“何もしない奥さん”にしか見えないでしょう。それも元モラハラ夫の作戦だったかも知れません。
何度も書きますが、外面は非常に良いので、本当の元モラハラ夫の顔を知る人は
いませんでした。
私にとって結婚生活は、火事をきっかけに再スタートしたつもりでいました。
ところがモラハラぶりは変わりません。むしろエスカレートしていきました。
家が全焼するというありえない体験をきっかけに、元モラハラ夫も変化があるのかも、、と期待をしていました。
今思うと、変わる変わらないではなく、元々が「そういう人」なので
期待する方が馬鹿をみますね。


📗イラストと私📗

元モラハラ夫のことで悩むことはあったけど、どこか感覚が麻痺していることもあって子供のため、家庭のためと、どうにか自分を奮い立たせながら頑張っていました。
結婚したら色々あるし、悩んでるのは私だけじゃないと何度も思い
今ある現実から目を背けていたと思います。

私には一つの楽しみがありました。
それは、絵を描く事です。
長女が幼稚園に通う年齢の頃に、一緒に絵を描いて遊んでいました。
娘と絵を描いている時に、ぼんやりと考えていたことがあります。
高校生だった頃に夢中になれた美術部時代を思い出させてくれたのと
親子で楽しい時間だったので、絵をもっと練習して個展でもしたいな〜と。
ほんとに漠然と考えていました。

それからは、忘れていた楽しいと思える時間を取り戻すかのように
毎日絵を描いていました。
時々受けるモラハラにも耐えれたのは、絵を描く楽しみがあったのと
描いた作品に自分が癒されていたのかもしれません。

📗初の展示📗

初めての展示は、家から車で5分くらいの距離にあった今は無きお店と、
車で40分位かかる距離にあるカフェでした。このカフェは今もあり絵を飾らせていただいてます。
車で5分にあったお店で飾らせてもらってからは、地元の人たちに少しづつ
認知してもらえるようになり、オーダーもいただいたりしました。
友達の協力あって他でも展示をする機会が増えました。
自分の描いた絵を見てもらえて、それを買ってくれる人がいることで
私という存在価値が認められたような気がしました。
世間では理解してもらえない元夫のモラハラのことは、ひた隠しにすることにしました。
話をする事は、私の絵を気にいってくれた人に、夢を壊すような行為に思えたからです。とは言っても、私は神絵師でもなければ有名人でもありません。
だけど、私の描く絵は、メルヘンで空想の世界を描いています。メルヘンチックで夢のある空想の世界を描く人がモラハラで悩んでいるなんて聞いたら、何となくいいイメージはしないと思っていました。




📗離婚を決意するまで📗

ここに書き切れないほどのモラハラを受けてきて、(詳しくはこちらを→
📗結婚生活で知る元モラハラ夫の本当の顔📗)

次第に私の頭の中は、元モラハラ夫の異常な態度でおかしくなるのでした。

「私がおかしいのかな?」
「どうしたら改善されるの?」
「何が原因なの?」
「他人に理解されない苦しさ」
「解決方法が分からない苦しみ」

頭の中でぐるぐると悩み続けました。
自分でもネットで調べて、当てはまるものを見つけました。
もしかして、元モラハラ夫は病気なのかもしれない!!とも思った時期もありました。
私達の縁を繋いでくれた共通の知人にも相談したり、占いにも行きました。
この頃私は、鬱に片足突っ込んでいた状態だったかもしれません。

そんなある日、テレビで大物芸能人が離婚したニュースが流れてきたのを
偶然見ました。
私はその離婚理由に衝撃が走りました。
まさに、私が長い間苦しんできた内容と一致していたからです。
それが、モラハラハラスメント です。
通称 「モラハラ」
この言葉を初めて知りました。
モラハラ(モラルハラスメント)とは、直接的な暴力(パワハラ)でなく精神的な暴力や言葉による暴言、態度などで相手に精神的な苦痛を与える行為です。


・精神的に相手を追いつめ虐待し人格否定をする
(具体的には、怒鳴る、暴言、無視、意見を押し付ける)

・金銭的に苦痛を与え、身動きを取れないようにする

など。

こんなこともありました。
元モラハラ夫は土曜日に出勤することになりました。私は子供達を公園に連れて行くために
車で30分くらいかかる大きな公園まで行きました。
子供達と楽しく遊ばせてる時に、元モラハラ夫からのメールがありました。

モ、、、どこにいるんだ?💢
私、、、子供達を連れて公園に行ってる
モ、、、家に帰ったら誰もいないのは何故だ?💢
私、、、だから、公園に行ってるから
モ、、、帰ってこい!💢
私、、、まだ遊ばせたいから、もう少ししてから帰る
モ、、、なんで家にいないんだ💢
私、、、なんか用事あったっけ?
モ、、、何もない💢

どうやら、この日は週末ということもあって午前中で仕事を終えたようです
。何も知らなかったのと家にいないといけない用事もありませんでした。
メールでそんな不毛なやりとりが続き、憂鬱になって家に帰ることにしました。
案の定怒っていました。
なぜ怒っているのか分からないから聞くと、
「そんなこともわからないのか💢だからお前はダメなんだ💢」
そんな理不尽な怒りをいつもぶつけられていました。
モラハラとはそういうことです。


大物芸能人のモラハラ離婚を知ってからは、少しだけ元モラハラ夫のことが知れて安心しました。
毎日の生活の中で、元モラハラ夫とのやりとりがこんな調子なので
まともに会話ができません。

時々まともな事もあるので、今日は大丈夫だったという日もあります。波のあるつかみどころのない、一貫性のない理不尽な言動は本当によく分かりません。

子供達との予定や私の予定を伝えても、元モラハラ夫が忘れているのにも関わらず「聞いてない」と言われることも、しばしばで。何度も伝えると「しつこい」と怒られることも。対策としては、大きなボードを買って来てそのボードにスケジュールを書くことにしていました。そのおかげか、「聞いてない」と言いつつもボードを見ると「ハッ!!」と慌てる元モラハラ夫の姿を何度も見ました。


でもこれって家庭内だけで起こるので、誰も理解してくれる人はいませんでした。
家族であるはずの元義両親でさえも、、、。
じゃあしょうがないかって私さえ我慢すれば、、と思える時もあったし、だからと言って、先の読めない地雷をいつ踏むか分からない緊張感の中、生活をするのも苦痛でした。
次第に私は、元モラハラ夫を怒らせないようにするには、、とばかり考えて行動していました。
段々と家の中では、私の存在価値はなんだろう?と考えるようになりました。
離婚という言葉が脳裏に浮かぶようになったのもその頃からだったと思います。



📗自分という人格を消した日々〜モラハラ後遺症〜📗

離婚をしようと思ったけど、正直できれば、なんとか離婚せず”いい夫婦関係”に修復できたらいいなとも思っていました。離婚を思い留まるきっかけは、やっぱり子供の存在でした。でも、そうするには、私という人格を消して過ごす事でした。
くる日も来る日も、モラハラ夫の相手をしていると、家事や育児をしていても、だんだんと無気力になり、脱力感や無力感を感じてしまい、食事もおいしくない。

でも、どんなに打ちのめされても、子供のため、家庭のためと、
どうにか自分を奮い立たせ、また頑張ろうと思っていました。
 今回のはかなり参ったなーと思っても、ずっしり重い身体を引きずって、どうにか頑張るわけです。
 だけど、疲れ切った心はなかなか回復しません。どんどん私という人格は無くなっていくのでした。
好きだった絵も描けないでいました。ここまでくると、モラハラ夫の洗脳にのめり込まされた状態ですので、目の前のことをこなす事で精一杯です。

そんなある時、知人の紹介で相談に乗ってくれる人を紹介してくれました。

私の言動がかなりおかしくなっていた事を教えてくれた人がいました。
自分では気付かない具体的な言動とは、、


①全てに許可制をとっていた事

②いつもため息をついていた

③嘘をついていた

具体的には


『トイレ行っていい?』
『食べてもいい?』
『車に乗ってもいい?』などなど。


② 言葉の通り ため息のオンパレード

③ 怒られるんじゃないかって、いつもビクビクしていたので、空気を察して顔色を伺い事実とは違うことを言う


どうやらナチュラルにやってしまっていたのです。
初めは教えてくれた内容が理解できず、自分ではそんなことしてないつもりでいました。
でも、どこか自分らしくない生き方をしていて苦痛だったので、そういうことなんだと理解出来ました。

モラハラの後遺症はかなり減りましたが、未だに癒えてはいません。でもこうして自分から発信することができるようになりました。モラハラ夫と離れた事で少しづつ回復して、今まで抑えていた喜怒哀楽の感情を出せることの大切さを知りました。心から笑えるって素晴らしいと思います。

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