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雑感1「結婚して姓を変えた理由」

序文

 結婚して妻の姓にしたと言うと、必ず
「なんで?」
 と、訊かれる。なんでと言われても、現行の民法では「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」ことになっているので、色々と勘案したうえで妻の氏を称することにしたとしか答えようがない。まあ、96%が夫の姓を選択する我が国においては、夫の姓を選択することが「当たり前」となっており、妻の姓にすることは「あえて」する変わった選択と見なされるので、「わざわざ」妻の姓にするからにはなにか特別な考えがあるに違いない、と勘繰ってしまうのも致し方ないだろう。
 ……などと言っているおれも、妻の姓にしたという友人がいれば、どのような考えがあって妻の姓にしたのかは、やはり気になってしまう。おれも十中八九「なんで?」と訊くだろうから、他人のことは言えない。
 おれは物心ついたときから「常識」や「世間体」といったものが大嫌いな天邪鬼だったので、当然「結婚したら夫の姓にするのが当たり前」という通念には反発を覚える。また、白か黒かで思考したがるASD的な性向も持ち合わせているので、夫妻どちらの姓を選択するかは法的に平等であるのであれば、「夫の姓にするのが当たり前」といった通念は唾棄したうえで、まったく対等な立場から新しい姓を検討すべきだろうと考える。そして、まったく対等な立場から新しい姓を検討した結果、妻の姓が選ばれたというわけである。
 夫の姓を選択してもその理由を問われないのであれば、妻の姓を選択した理由を問われても答える義理などない。しかし、夫の姓にすることが当たり前とされるのが現状である以上、その理由を答えることにはなんらかの公共的な意味があるかもしれないので、今回は特別に公開する。ひれ伏して感謝せよ。

1.妻の姓のほうが戦闘力が高いから

 全国の山根さんには申し訳ないが、山根というのは弱っちい姓だと思っている。まず「山の根っこ」という字面が、そもそも弱っちいし、山根で有名な人物と言えば、『ちびまる子ちゃん』に登場する胃腸の弱い男の子や、細身でなよっとしたお笑いコンビの片割れなどであり、世間的にも弱々しいイメージがある。戦闘力で言えば「5」くらいしかない。
 それに対し、妻の姓は後藤であり、これは比較的戦闘力が高い。後藤は全国35位の姓で、決して珍しい姓ではないが、「ゴ」という濁音からは力強さが感じられるし、「藤」という高貴な漢字も入っている。ヤムチャ程度ならイチコロである。
 おれは夫妻どちらの姓にするか検討するにあたって、手始めに山根と後藤の拳闘試合を行った。第1ラウンドのゴングが鳴り響いたわずか数秒後、後藤の右ストレートが山根の上顎を強襲、山根は一瞬にしてノック・アウトされた。口から泡を吹きだし仰向けに失神する山根。こうして後藤の腰にチャンピオン・ベルトが巻かれ、後藤の勝利を称える拍手喝采の中、婚姻するにあたり新しい姓として後藤が採用されたわけである。

2.妻のほうが自分の姓を気に入っているから

 先に述べたように、おれは自分の姓を特に気に入っているわけではない。もっと「日番谷」とか「更木」みたいな、カッコいい姓だったらよかったのになァと、小学生のときから思っている。できれば卍解とかもしたい。
 一方、妻のほうは自分の姓を気に入っており、「私は後藤である」という確たるアイデンティティーを持っているようである。であれば、妻の姓を選択するほうが理に適っている。

3.おれの姓+妻の名だと韻を踏みすぎて変だから

 妻はちょうど「やまね」と韻を踏む名を持っている。よって、おれの姓にしてしまうと「ああえああえ」と韻を踏んでしまい、変な感じになってしまう。まあ、そこまで変というわけでもないのだが、個人的に「山根○○○」は変な感じがする。なので、変ではないほうの姓にした。

4.妻に姓で呼ばれているから

 妻には「やま」とか「やまちゃん」とか、性をもとにしたあだ名で呼ばれている。なので、自分の姓にした場合、「山根母・山根父・山根子」という家族構成の中で、山根母が山根父を山根と呼ぶという、混乱した状況が将来的に発生してしまう。こうした混乱を避けるためには、妻に姓ではなく新しく名で呼んでもらうか、自分が妻の姓にするしかない。おれは妻に変わらず「やま」「やまちゃん」と呼んでほしいと思っているので、迷わず後者を選択した。

5.おれのほうが暇だから

 妻は土日の休みも満足に取れないほどの激務である。それに対し、おれはリモートワークで残業も少ないので、暇を弄んでいる。
 姓を変えると、免許証やクレジットカードなどの名義変更が必要になるため、面倒な手続きをしなければならないし、手続き上の不便は将来的にも発生し続ける。クソ忙しい妻にクソ面倒な手続きを負担させ、クソ暇なおれが相変わらずクソ暇にしているという状況は、どうも不条理である。よって、その負担はおれが引き受けるべきだろうと思った。

6.妻のほうが社交的だから

 妻は社交家である。妻はコミュニケーション能力の鬼であり、毎週のように新しい友達やビジネスパートナーが増える。それに対し、おれはひきこもりの豚である。妻に誘われなければ外出することはほとんどなく、映画鑑賞や読書を神経症的に反復し、知識武装により人生を豊かにしているつもりで、その実、貴重な人生の時間をムダにしているだけの豚である。
 姓を変更した者にとって、新しく出会った人に自分をどのように名乗るかは悩みどころである。妻が姓を変更した場合、毎週のようにそのような葛藤が身に降りかかることになる。それにもし、新姓を名乗ることにするのであれば、名乗るたびに「後藤」としてのアイデンティティーは失われてしまうだろう。
 それに引き換え、おれのような豚には新たに自己紹介をする機会などないから、姓を変更したところで名乗りに関する問題は起こらない。起こるとすれば、友人や会社の同僚など既存の人間関係においてだが、みんな変わらずおれのことを山根と呼び続けている。
 世の中では夫の姓にするのが当たり前とされているので、男の場合、結婚したと報告しても
「へえ、結婚したのか。あ、じゃあこれからは後藤さんって呼ばなきゃな!」
 といったコミュニケーションが発生しない。こちらから「本当の名前」を教えると、みんな一様に驚くのだが、ただ驚くだけで、呼び改めようとする者はいない。
 姓が変わり、旧姓を使用するという条件は同じでも、そこには男女差があり、旧姓使用においても男のほうが有利な立場にあるというのが現状である。

7.姓が変わるという体験をできるから

 姓が変わったことによって要らぬ手続き上の負担を強いられている人たち、違う姓になったことで自己喪失感に苛まれている人たちには不謹慎な話だが、「姓が変わるとはどのような体験か?」ということに興味があったので、姓を変えたという動機もある。
「姓の変更にはどのような不都合が生じ得るのか?」
「姓を変更することでアイデンティティーはどの程度揺らぐのか?」
 といったことは、実際に姓を変えてみなければ分からない。こういうとき、おれは新しい体験ができるほうを選びたいと考える。もちろん、様々な不都合を甘受しなければならなくなるが、自分のことは新たな知識の供給源となる実験材料くらいに思っているので、不都合よりは好奇心のほうが優先される。
 これには、96%側の人間だからこそ持てる好奇心というか、ある種の余裕のようなものが感じられ、自分で書いていて少しウザったい。まあ、人間にはこういった心理も発生し得るのだというケースとして、軽く流していただきたい。

8.戸籍に登録されている名を「本当の名前」だと思っていないから

 姓を変更することの問題の一つに、アイデンティティーの喪失がある。アイデンティティーと密接に結びついていた姓が「本当の名前」ではなくなってしまうことで、喪失感に苛まれるというわけだが、しかし「本当の名前」とはなんであろう。
 「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」というのは、ただの行政の都合である。行政の都合によって戸籍なるシステムに登録される0と1の配列が、なぜ「本当の名前」なのか?
 芸名で活動している芸能人を考えてみる。彼ら/彼女らの名は、世間的には芸名として通用しており、芸名が一つのアイデンティティーとなっている。「本当の名前」などがわざわざ問題にされることはなく、問題にされるとしても「さて、この芸人の本名はなんでしょうか?」といったクイズ問題としてである。
 であれば、パンピーも同じような生き方をして悪いという法はないだろう。戸籍に登録された名を「本当の名前」などと考える必要はない。自分が好きな名を、好きなように名乗ればよい。
 とはいえ、誰しもこのような割り切った考え方をできるわけではないし、「本当の名前は?」という世間の圧力もある。ならば、このような割り切った考え方ができるおれが姓を変更したほうがいいだろう。
 ただ、おれは新姓を「単なる書類上の名前」として蔑ろにしているわけではない。おれは姓が変わったのではなく、新たな姓を獲得したというふうに考えている。おれは山根でもあるし、後藤でもある。どちらも本当の名前だ。

跋文

 以上が、おれが妻の姓を選択した理由である。どうだ、まったく参考にならなかっただろう。姓の変更一般を語るには、あまりにも個人的な特殊事情が多すぎる。
 それにしても、姓が変わってからそろそろ二年が経つというのに、特にこれといった不都合が生じていない。姓の変更に関する記事があった場合、たいていそれは「姓の変更にはこのような不都合がある。是非とも選択的夫婦別姓の導入を」といったものである。そのような内容を期待した人たちには申し訳ないが、おれのようなひきこもりの豚には、起こりようのない話であった。
 おれが姓を変えて分かったことは、選択的夫婦別姓が未だに導入されていないことは確かに問題だが、しかしそれ以上に、姓を変えたというのにこれといった不都合が生じていない自分の人生のほうが問題だということである。

おわり

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