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第四章 人格主体 1 規範主体

 前節で論じたように、〈人格主体〉は、規範的水準における統一整合的生活を構成する生活主体である。すなわち、生活意志として、主体行動や〈生活世界〉が規範的に統一整合的である。したがって、それは、全般的な〈規範定義能力〉と〈規範従則能力〉を持つ。具体的には、〈規範定義能力〉とは、〈私我〉としての全般的意図能力であり、また、〈規範従則能力〉とは、①〈生活主体〉としての全般的行動能力、②〈生活意志〉としての全般的統整能力、③〈私我〉としての全般的意図能力、である。[なぜ〈規範定義能力〉である[〈私我〉としての全般的意図能力]が〈規範従則能力〉でもあるか]というと、他者から規範を負課されている場合に、[〈生活意志〉としての全般的統整能力]によって[自分に規範が負課されている]ということを考慮し、かつ、[〈私我〉としての全般的意図能力]によってみずからその負課されている規範を自分に意図として再定義してこそ、他者から負課されている規範を従則しようとすることができるからである。もっとも、[能力を具備している]としても、なにもその能力を発揮するとはかぎらない。〈規範従則能力〉のある者は、いや、ある者だけが、規範を反則することもできる。

 古来より、人間は、二つまたは三つの要素において考察されてきた。すなわち、身体と精神、または、体と心と霊、ないし、技術[techne]と理性[ratio]と知性[nous, intellectus]である。しかし、ここで言う〈生活主体〉〈生活意志〉〈私我〉は、同一のものの三重の現象である。すなわち、先述のように、[〈生活世界〉を含む代謝・盛衰・行動の連続同一性[identity]]という現象が、〈生活主体〉であり、[〈生活主体〉としての連続同一性におけるその主体行動や〈生活世界〉の統一整合性[regularity]]という現象が、その生活主体の〈生活意志〉である。そして、[〈生活意志〉としての統一整合性における原則の連続同一性]という現象が、〈私我〉である。〈生活主体〉の行動能力がなければ、〈生活意志〉もなく、〈生活意志〉の統整能力がなければ、〈私我〉もない。それは、物体があって、それに表面があり、表面があって、それに色彩があるようなものである。物体のない表面はなく、表面のない色彩はない。

 このように、〈人格主体〉が規範能力によって資格づけられるとしても、しかし、我々自身がまたこの〈人格主体〉であるがゆえに、実在的水準における統一整合性よりも、規範的水準における統一整合性を重視するのであり、それゆえ、[何が〈人格主体〉であるか]という問題もまた、実際には、[何であれ、〈人格主体〉であるとすることになっているものが〈人格主体〉である]ということに還元されてしまう。つまり、我々は、〈様相協証規範〉によって、ある条件を充足するならば、それが〈人格主体〉であるということにすることになっている。それゆえ、ここにおいては、実在的に規範的水準における統一整合的生活を構成する〈実質的人格主体〉と、規範的に規範的水準における統一整合的生活を構成することにされている〈規範的人格主体〉とが分裂してしまうことになる。

 もちろん、通常は、実在的水準において実質的に規範能力を具備する〈実質的人格主体〉であれば、規範的水準においても規範的に〈人格主体〉として認められる。けれども、いかに〈実質的人格主体〉であっても、規範的に〈人格主体〉と認められないならば、つまり、その人格性を剥奪されてしまうならば、規範的水準において無視されたり、軽視されたりすることになるのであり、つまり、〈人格主体〉としての待遇をされないのであり、したがって、とくに他者への依存が高まっている現代においては、およそ実質的にも、生活に〈人格主体〉としての規範的水準における統一整合性を構成することができないことになってしまう。この意味で、規範的水準において人格主体であるということは、協証的に人格主体として配慮するという規範が周囲の人々に負課されていることによる。人格主体であるということは、このように周囲の人々の配慮による空白そのものであり、いわばドーナッツの穴のようなものである。それらの配慮のないところでは、人格主体も規範的に存立しえない。しかし、人格主体への配慮は規範的に負課されるものであり、かってに埋めることは許されない。この人格主体への配慮の規範が、権利、とくに「人権」と呼ばれる。

 たとえば、人間は、差別として人種によってその人格性を軽視されてしまうことがある。この場合、その人間は、人格的な規範能力も付与されず、したがって、職業につくこともできず、したがって、財産を持つこともできず、実質的にも、〈人格主体〉としての特徴を持つことができないことになる。

 人格主体が、脈絡に弁別性(意義)のある自由な行為の機会を所有することがある。この場合、その人格主体は、その脈絡を支配する。そこにおいて、他者は、その自由な行為の自発的遂行を懇願しなければならない。そして、その懇願こそ、貨幣の提示である。言ってみれば、賄賂こそ経済の原初形態である。それゆえ、経済的社会参加とは、他者が希望する脈絡の支配の拡大にほかならない。それには、脈絡のツボ(要所)の所有と、その脈絡を他者に希望づけることが必要となる。

 これまでの議論において、経済を問題とするのに、なぜ脈絡だの人格だのを長々と考察しているのか、疑問としている読者も少なくないだろう。しかしながら、このような意味で、経済の考察には、脈絡の人格的所有支配とそれに対する貨幣的懇願こそが、その根底において重視されなければならない。

 したがって、〈実質的人格主体〉ではないとしても、つまり、もともと人格性がないとしても、規範的水準において、いったん〈規範的人格主体〉とさえされるならば、その規範能力の欠如は、定型的弁明で糊塗され、問題とはならない。すなわち、およそ〈主体行動〉がなくても、[行動できないのではなく、行動しようとしないのだ]として、〈生活主体〉としての全般的行動能力も瑕疵なく認められる。また、〈生活世界〉も規範的に所有することされるが、それらの〈生活世界〉の物事が、およそ実質的に所有されることなく、統一整合性のないままに乱雑に放置されていたとしても、[整理できないのではなく、放置している、もしくは、それはそれで独特に整理されているのだ]として、〈生活意志〉としての全般的統整能力も瑕疵なく認められる。さらには、「あえて行動しようとしない]こと、「〈生活世界〉をあえて放置している」ことを根拠に、そのようなことを意図する〈私我〉も措定され、その全般的意図能力も瑕疵なく認められる。かくして、それは、規範の定義能力も、従則能力も持っているということにされることになる。

 ゴトーのようにけっして登場しない人物、もしくは、もともと存在しない人物でも、それを待つ人々によって、そこにその人物が出現することになる。

 イヌやネコなどでも、溺愛する飼主からすれば、まったく人間と同等の〈人格主体〉であることがある。

 ならば、何にでも〈人格主体〉を規範的に認めることができるか、というと、けっしてそうでもない。それはそれで、我々の〈様相協証規範〉としてある程度のガイドラインが決まっている。もちろん、どんな規範にも、それに反発し、独自の規範を主張して実行する人々はいるが、他の人々にまともに執り合ってもらう、すなわち、社会的な現実脈絡に取り込まれるには、すくなくとも我々に負課されている〈様相協証規範〉としての〈人格主体〉の資格(身分条件)の規範的標準を無視することはできない。以下に、その規範的標準を考察しよう。

 イヌやネコを溺愛して人格視する人は、そのことについては、精神を同じくするその同好の人々の中ではともかく、ふつうには他者からまともに相手にされない。


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