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第三章 主体 3〈生活世界〉そして〈生活体〉

 先述のように、〈生物主体〉の〈行動〉は、一般に〈代謝〉や〈成衰〉を目的とするものと考えられ、実際、動物などの〈行動〉には、〈代謝〉や〈成衰〉との関連が認められる。すなわち、動物などは、捕食などの〈行動〉によって、〈代謝〉や〈成衰〉をするだけでなく、〈代謝〉や〈成衰〉をしやすい環境への移動、さらには、環境そのものの形成を行う。このように、[移動や形成などの行動によって獲得される、〈代謝〉や〈成衰〉に適合する環境]を、その〈生物主体〉の〈生活世界〉と呼び、また、[〈生活世界〉を保有する〈生物主体〉]をとくに〈生活主体〉と呼ぶ。

 つまり、我々は、〈生活主体〉の場合、そこに二重に現象を認める。すなわち、ひとつは、その連続同一性という現象であり、その現象の自然主体として、我々は〈生物主体〉を認める。またひとつは、その〈生物主体〉がみずから獲得する適合環境である〈生活世界〉の統一整合性、および、そのように統一整合的な〈生活世界〉という適合環境を獲得しようとする〈主体行動〉の統一整合性という現象であり、これらの統一整合性という現象の自然主体として、我々は〈生活意志〉の存在を認める。

 〈生活世界〉の統一整合性という現象は、〈生物主体〉の〈主体行動〉を原因とするものであり、また、その〈主体行動〉の統一整合性という現象は、その〈生物主体〉を原因とするものであるがゆえに、この〈生活意志〉は、我々の〈存在協証規範〉として、その〈生物主体〉の「中」にあるということにされる。しかしながら、何度も繰り返すが、〈生活意志〉などというものが実在的水準において「中」にあるわけではなく、ただ、〈生活主体〉において、〈生物主体〉と重複する現象として、その〈生物主体〉の〈主体行動〉や〈生活世界〉に認められるということである。

 むしろ、〈生活意志〉の上に、さらにその統一整合性の連続同一性として、さらに〈私我〉という現象が認められる。〈生物主体〉があくまで実在的水準の主体にすぎないのに対して、〈私我〉は、規範的水準の主体であり、〈主体行動〉や〈生活世界〉に〈生活意志〉としての統一整合性を実現させるものである。ただし、「実現させる」と言っても、〈私我〉そのものはなんの行動力もなく、〈意図〉という様相を持ついくつもの〈主体行動〉においておのずから〈生活意志〉としての統一整合性が実現する。したがって、〈私我〉は、〈主体行動〉の〈意図〉という様相からその存在が間接的に認められるにすぎない。というより、さまざまな〈主体行動〉が〈意図〉という様相を持ち、〈生活意志〉としての統一整合性を連続同一的に実現させるということそのものが、〈私我〉という現象である。〈私我〉は、[〈生活意志〉の核心となる、その統一整合性の連続同一的な原則]であり、実質的な主体性そのものであり、また、[その個体がその個体として無二独立であるための本質]である個性である。

 ある〈生物主体〉に適合する環境であれば、なんでもその〈生活世界〉であるわけではなく、あくまでそれはその〈生物主体〉の〈主体行動〉によって獲得されたものでなければならない。したがって、ある統一整合的な〈生活世界〉が存在するとしても、それはあくまで過去の統一整合的な〈主体行動〉の結果であり、過去の〈生活意志〉にすぎないものかもしれない。とはいえ、〈生活世界〉が過去に獲得されたにしても、現在もまたそれでよしとして承認されている場合には、それはそれで現在の〈生活意志〉である。

 〈生活主体〉と〈生活世界〉からなる生活単位を〈生活体〉と呼ぶ。〈生活体〉は、たんに外部から与えられた環境ではなく、行動によって選択され形成されたものであり、むしろ〈代謝〉や〈成衰〉や〈行動〉の場として、拡大された意味で、その〈生物主体〉の実体そのものである。したがって、たんにその〈生活主体〉が〈代謝〉や〈成衰〉をするだけでなく、その〈生活主体〉の〈行動〉によって、その〈生活世界〉そのものもまた〈代謝〉や〈成衰〉をする。もっとも、〈生活世界〉は、〈生活主体〉なしに自律できるものではなく、実際、〈生活主体〉は、しばしば古い〈生活世界〉を捨て去って、まったく別の新しい〈生活世界〉に移動したり、形成したりすることがある。この意味で、〈生活主体〉、および、〈生活主体〉と〈生活世界〉からなる〈生活体〉は、主体としての連続同一性を保持しているが、しかし、〈生活世界〉そのものは、連続同一性を保持しているとはかぎらない。そこにあるのは、統一整合性だけである。なぜなら、〈生活世界〉は、〈生活主体〉の〈行動〉によって獲得されたものだからであり、したがって、〈生活世界〉は、〈主体行動〉を介して、〈生活意志〉としての統一整合性を反映しているはずのものだからである。

 たとえば、蜘蛛の巣を考えよ。あれは、たしかに物理的な意味では、蜘蛛の身体そのものではないかもしれないが、しかし、生活的な意味では、それなしでは蜘蛛が蜘蛛ではありえないほどに、蜘蛛というものにとって本質的な部分である。同様に、人間の場合も、住居や衣類などは、そこに居ない時、それを着ていない時を含めて、その生活において、あくまでいわば身体の一部である。

 ただし、複数の〈生活主体〉が同一の〈生活世界〉を共有し、一つの〈生活世界〉に複数の〈生活主体〉が内在することがあり、このような場合、それは、一つの〈共同生活体〉とみなすことができる。ここでは、物理的にはたしかにその〈生物主体〉の個体が〈主体行動〉によって形成した〈物事〉ではないにもかかわらず、そこにもその個体の統一整合性が実現しており、それゆえ、それをそのままよしとして〈生活世界〉に吸収し拡大することが、相互的かつ重複的に発生している。そして、先述のように、〈生活意志〉は、〈主体行動〉や〈生活世界〉の統一整合性として存在するものであるから、複数の〈生活主体〉で同一の〈生活世界〉に共有する場合には、〈生活意志〉は、個々の〈生活主体〉ではなく、〈共同生活体〉そのものに成り立つことになる。したがってまた、その統一整合性の連続同一的な原則である〈私我〉もまた、奇妙なことに、個々の〈生活主体〉ではなく、〈共同生活体〉の〈生活意志〉に成り立つことになる。

 このような〈共同生活体〉が成立するのは、個々の〈生活主体〉の〈生活意志〉としての統一整合性の連続同一的な原則にあまり差異がないために、すなわち、〈私我〉の個性が強くないために、〈生活世界〉の統一整合性の限界が融解し、延長し、結合してしまうことによって発生する。これには、もともと〈私我〉が共通的であることもあるし、また、〈私我〉が学習によって共通化することもある。しかしまた、そうではない、〈共同生活体〉においても個々の〈生活主体〉の〈私我〉がまったく異なることもある。それは、それらの〈生活主体〉が、相互的かつ重複的に他の〈生活世界〉を吸収して拡大しているからである。ここにおいては、その〈共同生活体〉は、個々の〈生活主体〉とはまったく異なる壮大な〈生活意志〉およびその〈私我〉を持つことになる。それが壮大であるのは、それに内在する個々の〈生活主体〉には計り知れないものだからである。

 たとえば、人間は、教育によって、〈私我〉が社会的な〈精神〉を内化し、〈生活世界〉を共有することができる。

 たとえば、動物と植物とは、まったく異なる原則で生活しているが、しかし、共存してこそ、たがいに生活していくことができる。

 個々の〈生活主体〉が全体のグランドデザインを持っているわけではあるまい。部分が全体を内在していなくても、結果として統一的な全体が形成されるということはありうる。たとえば、正五角形は、各角に三つずつ接続すると、絶対的に正十二面体が形成される。けれでも、だからといって、正五角形が正十二面体の性質を内在しているわけではない。同様に、炭素からダイヤモンドが形成されるが、ダイヤモンドの性質は、まさにそのように炭素が組み上がっていることにこそあるであって、個々の炭素原子は、およそダイヤモンドの性質など持ってはいない。

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