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第二章 意味 3 意味の発現

 もちろん、生活上には、「無意味」な物事というものもある。しかし、それは、[もともと無意味であるもの]と、[状況から無意味になるもの]とに区別しなければならない。

 [もともと無意味であるもの]とは、類型として連鎖性のないもの、状況適合性や状況転回性がないものである。したがって、これも厳密には、[そもそも状況適合性がないもの]と、[状況適合性はあるが状況転回性がないもの]とに区別される。ただし、ここにおいて無意味であるのは、類型であって、物事ではない。いかなる類型として解釈しても無意味である物事は、そもそも物事ですらない。逆に言えば、[なんらかの類型として解釈すれば有意味であるもの]こそが、物事であり、生活において問題となるものである。とはいえ、[もともと無意味であるもの]である、およそ物事ですらないようなものは、一般に逆に後述するような排斥条件にも採り立てて抵触せず、状況に適合することも、状況を転回することもないまま、意外に多く生活上に存在しており、また、参入することができる。

 たとえば、「おはようではない」は、そもそもこのような言葉を発する状況適合性が欠落している。これに対し、たとえば、「ラリホー」は、喜びの表現などとしては状況適合性があるが、こう叫んだからといってどう状況が転回するわけでもなく、無意味である。「おはよう」も、言葉としては「ラリホー」と似てはいるが、それは朝のあいさつとしての状況適合性があり、あいさつを済ましたという状況転回性もあり、充分に有意味である。
 状況転回性のない無意味なものは、かつて、〈αδιαψορα(アディアフォラ)〉と呼ばれた。これは、古代ギリシア語で‘差のないもの’という意味であり、スコラ哲学では、善でも悪でもない、宗教的・倫理的に問題とはならないもの、どうでもよいものを指した。しかし、ここでは、宗教や倫理に限らず、およそなんらかの観点において状況転回性があるかどうかを問題としている。

 一方、[状況から無意味になるもの]は、状況にその類型の状況適合性を満たす〈適合条件〉が欠落している場合、または、状況にその類型に対する〈排斥条件〉が存在している場合である。とはいえ、状況にその類型の状況適合性を満たす〈適合条件〉が欠落している場合、その類型である物事は、無意味ながら存在することはできることもあるが、しかし、一般には、その類型の物事は、無意味である以前に、そもそも成立しえない。ましてや、状況にその類型に対する〈排斥条件〉が存在している場合、その類型である物事は、成立し存続しようとしても状況から排斥される。状況の〈適合条件〉は、類型の状況適合性に対応するものだが、状況の〈排斥条件〉は、類型そのものに対立するものである。このようなある類型に対する状況の〈適合条件〉や〈排斥条件〉は、脈絡における物事の意義によって形成されている。

 たとえば、先述のように、「おはよう」と言うことは、言葉としては有意味だが、無人の砂漠では、無意味となる。それは、状況がその言葉の状況適合性を満たす適合条件である相手の存在を欠落しているからである。とはいえ、無人の砂漠でも、無意味とはいえ、「おはよう」と言うことはできる。これに対して、たとえば、無人の砂漠では、露店で飲物を購入することはできない。それは、飲物を販売している露店がないからである。また、たとえば、逆に、無人の砂漠では、露店で飲物を販売していることもできない。というのは、もちろんたしかにお客が来なくても露店で飲物を販売しているということだけならばできるのだが、しかし、砂漠という苛酷な環境は、このような露店の営業に適合しないだけでなく、むしろ積極的にこれを排斥するからである。
 本書の後の章「価値と適合性」においては、この〈排斥条件〉は、[ネガティヴであることが適合条件であるもの]として、つまり、排斥条件は、適合条件と対称であるものとして理解されている。しかし、物事そのものは、かならずしも、排斥条件がネガティヴであるということを固有のポジティヴな状況適合性としているわけではない。たとえば、停電は、電気製品を使用することに対する排斥条件であるが、かといって、そのネガティヴが、積極的な適合条件であるわけではない。つまり、停電でなければよい、というわけではない。というのは、もしかすると、たしかに停電ではないかもしれないが、コンセントそのものがないかもしれないからである。このような点を考慮すると、排斥条件と適合条件とは、かならずしも対称的なものではなく、排斥条件の有無の方が適合条件の有無より優越して問題となる、と言えるだろう。

 排斥条件は、〈自然的排斥条件〉と〈規約的排斥条件〉とに区別される。すなわち、〈自然的排斥条件〉は、自然連関によってある類型を排斥するものであり、その類型が物理的に不可能であるというものである。〈規約的排斥条件〉は、規約連関によってある類型を排斥するものであり、その類型が社会的に不品行であるというものである。〈自然的排斥〉は、絶対的であり、物理的に不可能であるものは、規約的に排斥されるまでもない。だが、〈規約的排斥〉は、物理的には可能であることは多い。というより、物理的に可能だからこそ、わざわざ規約的に不品行とされている。しかし、それでも、物理的に可能であるがゆえに、いくら規範的に排斥しても、現実には、その他の都合によってこの〈規範的排斥〉は破られてしまうこともある。さらにまた、ある物事がある類型として排斥条件に抵触する場合、その排斥条件が規約的なものである場合はもちろん自然的なものである場合でも、人為的に、また、抵触する類型の物事が強引に状況に参入することによって、排斥条件そのものの方が排斥されることもある。このようなことは、状況にほかに強力な適合条件が存在する場合に起こりやすい。

 たとえば、鍵の閉まっているドアの鍵を閉めることができないのは、物理的に不可能だからであり、非常口の鍵を閉めることができないのは、規約的に不品行だからである。
 排斥条件と適合条件とが存在する場合、どちらを優先するか、すなわち、[ある物事の断念の損失]と、[排斥条件の排斥の費用と適合条件の適合の利潤の差引]の比較は、経営的問題である。

 先述のように、一般に、一つの個別的な物事は、さまざまな状況適合性や状況転回性という連鎖性を持ち、それゆえ、さまざまな類型としての解釈ができ、その解釈されたさまざまな類型において、それぞれの意味を持つことになる。したがって、これらのうちのいずれかの類型として状況に適合しなかったり排斥されたりして、無意味になったとしても、いずれかの類型として状況に適合し排斥されないならば、その適合した類型として有意味になる。しかし、その物事の解釈であるいずれかひとつの類型として状況の排斥条件に抵触するだけでも、他の類型としての解釈の余地を残さず、ただちにその物事が排斥されることになることもある。

 状況の排斥条件に抵触して存在すらできないのでは問題にならないが、ただ状況が適合条件を欠落して無意味になっているだけであるならば、その物事がその類型である以上、その類型としての意味まで消滅してしまうわけではなく、その意味は、〈潜在状態〉であると言うことができる。これに対して、状況が適合条件を充足し、その物事が有意味である場合、その意味は、〈顕在状態〉であると言うことができる。

 たとえば、[A→B]という意味は、[Aである]という状況でなければ、無意味になる。とはいえ、ある類型が[A→B]を意味とし、ある物事がその類型であるならば、ただそれだけでも、その物事はその類型として[A→B]という意味を持つ。ただ、その意味は、[Aでない]という状況においては潜在的であって、[Aである]という状況において初めて顕在的となる。

 さらにまた、意味が顕在状態の物事においては、状況適合性が満たされ、その状況転回性が発しうる状態となっているわけだが、その状況転回性を発していない状態、すなわち、〈可能的顕在状態〉と、発している状態、すなわち、〈機能的顕在状態〉とに区別することができる。そして、前者から後者への転回は、状況にその意味独特の転回条件を必要とする。つまり、意味は、状況が適合条件と転回条件とを充足してこそ発現する。しかし、意味は、連関であり、なかには自然的なものと規約的なものとがある。そして、自然的意味のなかには、特別の転回条件を必要とせず、固有の適合条件の充足のみで発現するものもある。

 たとえば、料理は、食卓に並べられた状況において、食べられうるものとなり、その意味を顕在化させるが、しかし、まだ食べられていない可能的状態と、食べられている機能的状態とがある。そして、前者から後者への転回には、人が食べるという転回条件を必要とする。
 アリストテレースは、『形而上学』などにおいて〈δυναμιs(デュナミス、可能態)〉と〈ενεργεια(エネルゲイア、現行態)〉という概念を用いている。そして、ここでの意味の〈可能状態〉と〈機能状態〉は、このアリストテレースの概念を踏まえたものである。また、アリストテレースは、この二つの概念に、さらに〈εντελεχεια(エンテレケイア、完了態)〉という概念を考えることもある。しかし、この〈完了状態〉は、ここでは、その機能である連関を形成した後も重層的に残存するものにすぎず、もはやそれは、その機能を喪失し、その状況に埋没したものであって、物事としては無意味になっている。
 たとえば、ある宅地は、まだ道路や水道などが接続していなければ、状況に適合していないから、潜在状態であるが、造成によって可能的顕在状態となり、売買や建築において機能的顕在状態となる。しかし、もはや家屋が建ってしまった状況においては、宅地としての機能は喪失している。

 以上を整理すると、意味の発現までには、次のような程度がある。
  もともと無意味であるもの
   ①類型が状況適合性を持たない
   ②類型が状況転回性を持たない
  状況から無意味になるもの
   ③状況の自然的排斥条件に抵触
   ④状況の規約的排斥条件に抵触
   ⑤状況に適合条件が欠落:   潜在状態
  実際にも有意味であるもの
   ⑥状況に転回条件が欠落:可能的顕在状態
   ⑦状況を転回しつつある:機能的顕在状態

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