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第二章 意味 4〈意義〉

 個別的な物事は、ある類型であり、かつ、ある脈絡にある。そして、それは、類型において〈意味〉を持ち、脈絡において〈意義〉を持つ。〈意味〉とは、物事の類型における独特の〈連鎖性〉であり、〈意義〉とは、物事の脈絡における独特の〈弁別性〉である。すなわち、ある物事は、その類型としての〈意味〉を発現することによって状況を転回するが、この転回における連関は、その後に連鎖累積する脈絡に対して弁別性を持つ。つまり、ある物事がその類型としての意味を発現する/しないによって、その後の脈絡は大きく異なってくる。この点において、ある物事は、[その物事の〈意味〉の発現の有無によって異なってくる脈絡を決定した]という〈意義〉を持つ。それは、その物事の類性(類型としての性質)を超越するものであり、その物事そのものの「個性」と呼ぶことができる。

 〈意味〉と〈意義〉の区別については、フレーゲなどが有名である。彼らは、これらをそれぞれ〈内包(思想、intention, connotation)〉と〈外延(指示、extension, denotation)〉として考察した。これに対して、ソシュールは、たしかに同じように〈記号[signe]〉に〈被記面[signifié]〉と〈表記面[signifiant]〉とを区別したが、しかし、その場合にも、被記面は、外延でも内包でもなく、〈言語[langue]〉という〈法典[code]〉上の差異であるとみなすべきであろう。ここでは、〈意味〉も〈意義〉もともに被記面的なものではあるが、しかし、それは、言語のような静的な共時的なものの上での差異としてではなく、連関という動的な通時的なものの上での差異として考察する。つまり、両者ともに機能(用法)的なものであり、ただ、その相違は、類型として固有のものか、個別として偶有のものか、ということである。そして、たしかに類型として固有である〈意味〉は、その固有性の根拠を〈法典〉に持つ。ただし、この場合の〈法典〉とは、後述するように、言語ではなく、精神である。
 この点については、G.Frege: "Sinn und Bedeutung"、C.Ogden & I.A.Richard: The Meaning of Meaning、F.de Saussure: Cours de Linguistique Generaleなどを参照せよ。

 しかし、〈意義〉は、その内容を生成する。〈意味〉が、類型として固有であるのに対して、〈意義〉は、特定の状況の特定の物事が持つものであり、それも脈絡の形成にしたがって生成していく。ある物事の〈意義〉は、当初はたかだかその物事が類型の〈意味〉として状況に適合し状況を転回しただけである。しかし、その〈意義〉には、やがてその状況からさまざまな物事によって形成されてくる脈絡も含まれていく。というのは、その物事は、存立重層的に、また、その物事自体は倒壊してしまっても継時的ないし発生重層的に、独自の脈絡を規定したからである。

 この〈意味〉と〈意義〉の区別は、おおよそ後-構造主義(構造化主義)の人々の〈出現脈絡[pheno-texte]〉と〈生成脈絡[geno-texte]〉の区別と並行する。この後者の区別は、生物学の出現型と遺伝型の区別に基づくとされるが(遺伝子の相乗相殺が出現型を規定する)、しかし、この発想は、即物的な誤解を招く。
 ここでの議論で言えば、物事は、もとより複数の類型として複数の〈意味〉を持ち、その一部が状況によって出現する。そして、その後の脈絡によって、〈意義〉が付加される。したがって、物事自体をいかに細密に解剖(analyze、分析)しても、けっして〈意義〉を発見することはできない。(分析判断の限界については、すでにカントが綜合判断として示しているが、もっと古くはアリストテレースにも見られることである。)
 〈意義〉は、物事に内在しない。物事の深層に〈意義〉の遺伝子が内在するかのような誤解は、解釈そのものまで遡生的である物神教的な素朴態度(⇔還元態度(E. Husserl))であり、おそらく、後-構造主義が後期ソシュールのアナグラム研究を参考にしてしまったことから生じているのであろう。(たしかに、そこでは、まさに文字としての遺伝子が存在している。)しかし、生成する意義は、アナグラムのような〈能記体[signifiant]〉の問題ではなく、あくまで〈被記体[signifié]〉の問題であり、それも、〈発語[parole]〉の生成ではなく、〈言語[langue]〉そのものの生成である。(そもそも、〈被記体〉などというものの実在を想定すること自体が、物神教的な素朴態度であり、また、〈言語〉の生成は、言語の全体そのものが提示されえないものである以上、革命のように全体的に交換されることもありえず、むしろ、まさにこのように具体的な物事の〈意義〉の脈絡への措定を通じて断片的[piecemeal]に遂行されていく。)
 むしろ、物事は、すでに現実の状況におかれているとしても、まだ間主体的なものとして多様な脈絡の交差する余地(〈間脈絡性[inter-textualite]〉)にあり、主観の解釈ではなく主体の利用において、権力権威的に一定の脈絡に措定されることになる。もちろん、脈絡に措定することのできる権力権威的な主体は、永遠のものではなく、その物事を利用した主体が入れ替わるとともに、新たな脈絡が作り出され、このようにして、その主体に利用された物事の〈意義〉も移り変わることになる。
 このような〈意義〉の歴史的生成性の問題については、J.Kristeva: Semeiotke、拙論:「精神科学の可能性」などを参照せよ。また、権力権威については、後述する。

 ただし、先述のように、〈意義〉とは、弁別性であるから、このような脈絡の形成において、その物事がその類型としての意味を発現しなかった場合に形成されると考えられる状況と合流してしまう場合、その物事のその類型としての〈意味〉の発現は弁別性を持たず、その物事に遡って、意義はなかった、とされることにもなる。つまり、〈意義〉は、その物事が規定する脈絡の独自性によるのであり、脈絡に独自性がない、または、かつてはあったにしてもその後になくなってしまったならば、その物事は脈絡を規定していなかったのであり、〈意義〉もなかったことになる。

 たとえば、大金の宝くじが当たったことは、その後の人生を大きく変えるという〈意義〉を持つ。しかし、換金前にその宝くじを落としてしまったならば、その後の人生は、もはや当たらなかったのと同じであろう。したがって、この場合、その宝くじが当たったことは、およそ〈意義〉がなかったことになる。もちろん、厳密に言えば、それでも、二度とものを落とすまいとするようになった、というくらいの人生の変化はあるかもしれないが、しかし、せいぜいその程度の〈意義〉である。
 このように、物事は(そして人間も)、短いスパンでは、たしかにそれぞれにかけがえのない〈意義〉があるが、長いスパンでは、脈絡が合流し、〈意義〉はなかったことになってしまう。たとえば、ある人間は、ある偉大な仕事を成し遂げたという〈意義〉があるとしても、長いスパンでは、その人間がやらなくてもどうせ他の人間がやったと考えられ、べつにその人間が偉大であったということにはならなくなってしまう。

 このような〈意義〉の生成や遡行を奇妙に感じるかもしれない。しかし、これが〈意義〉の本質である。もっと正確に言うならば、〈意義〉は、それを担う物事そのものが保持しているものではなく、現状の脈絡の独自性を分岐点にある物事の弁別性に帰したものであり、つまり、その〈意義〉を持つ物事は、脈絡の独自性の担保、脈絡の独自性を象徴的に付与された憑代(よりしろ)にすぎない。それゆえ、〈意義〉は、本質的に遡生的[retroductive]であり、かならずすでに機能的である。そして、脈絡の独自性こそが〈意義〉の実体であるから、脈絡が変われば〈意義〉も変わってしまう。とはいえ、物事は任意に〈意義〉が措定されるわけではない。後述するように、〈意義〉は、〈意味〉と同様に、精神において諸主体に共通に理解されるべきものであり、その理解の根拠は、その物事の独自の脈絡への弁別性としてあくまできわめて客観的なものであり、解釈の差異はない。ただし、[ある物事をいかなる脈絡に組み込み、そこからいかなる脈絡を作り出していくか]は、その物事を利用する主体の意図によるのであり、[どの主体がその物事を利用するか]は、主体の権力権威の問題である。つまり、作り出された脈絡は客観的なものだが、作り出す脈絡は主体的なものである。

 一般から特殊を判断する演繹推理[deduction]や、特殊から一般を判断する帰納推理[induction]に対し、結果から原因を判断するものを、遡生推理[retroduction]と呼ぶ。これこそ、認識はもちろん実践においても根本的な〈理性〉の能力であると言えるだろう。というのは、認識とは、感覚印象という結果から、その印象の原因である対象を措定することであり、また、実践とは、到達目標という結果から、その目標の原因である手段を遂行することであるからである。この点については、アリストテレースの『詩学』における〈遡認(アナグノーリシス、αναγνωρισιs)〉の概念を参照せよ。ドラマ(戯曲)は、小宇宙として人文学の有効なモデルである。そして、その分析的概念装置も共通である。

 先述のように、〈意義〉は、根本において、その物事の類型としての〈意味〉の連鎖性(状況適合性と状況転回性)に基づくものであるから、ある物事が解釈によって多様な類型であり、かつ、状況からそれらの類型として多重的に有意味になってしまう場合、それらの類型としての〈意味〉から、それらの類型である物事は、多義的となってしまう。これに対して、〈意味〉そのものは、類型に固有のものであるから、多重化することはない。

 〈意義〉において大きな機能を果たすものとして、先述のように、〈排斥条件〉〈適合条件〉〈転回条件〉がある。つまり、ある物事の弁別性は、他の物事を排斥したり、適合したり、転回したりすることによって、その他の物事の〈意味〉の状態を規定することになる。すなわち、ある物事がある他の物事の〈排斥条件〉としての〈意義〉を持つ場合、その他の物事は、その脈絡的状況に排斥されることになる。また、ある物事がある他の物事の〈適合条件〉としての〈意義〉を持つ場合、その他の物事は、その脈絡的状況に適合されることになる。さらに、ある物事がある他の物事の〈転回条件〉としての〈意義〉を持つ場合、その他の物事は、その脈絡的状況に転回されることになる。そして、先述のように、物事の〈意義〉として〈排斥条件〉もないが〈適合条件〉もない場合は、その他の物事の〈意味〉は、潜在状態として無意味になる。また、物事の〈意義〉として〈適合条件〉はあるが〈転回条件〉がない場合は、その他の物事の〈意味〉は、可能状態として有意味になる。そして、物事の〈意義〉として〈排斥条件〉がなくて〈適合条件〉も〈転回条件〉もある場合にのみ、その他の物事の〈意味〉は、機能状態として有意味になる。

 先述のように、ある物事が解釈によって多様な類型であり、かつ、状況からそれらの類型として多重的に有意味になってしまう場合、それらの類型としての〈意味〉から、それらの類型である物事は、多義的となってしまう。このために、ときには、一つの同じ物事がある他の物事の〈適合条件〉かつ〈転回条件〉となることもある。さらにはまた、ときには、一つの同じ物事がある他の物事の〈排斥条件〉かつ〈適合条件〉となることもある。この場合、〈排斥条件〉であるか、〈適合条件〉であるか、は、その物事の類型としての解釈の問題である。この場合、事実として多義的であっても、政治的に一方の解釈を隠蔽して一方の解釈を採用し、一義的であるかのように脈絡を進展させることがある。しかし、隠蔽された解釈は、事実としてまでも消滅してしまうわけではなく、ときには、その隠蔽によって、矛盾が伏線としての脈絡を派生し、後により大きな〈意義〉を発揮することにもなる。

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