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第三章 主体 4〈人格主体〉

 〈人格主体〉は、[自然人]または[自然人の集団ないし集団の集団]という〈生活主体〉である。ただし、動物的生活主体が、実在的水準における統一整合的生活を構成するのに対して、人間的生活主体は、規範的水準における統一整合的生活を構成し、ときには実在的水準の統一整合性は破綻してでも、前者を優先する、という点に特徴があり、この意味で、いわゆる〈生物主体〉とは区別される。つまり、我々は、[実在的にどうなっているか]ということではなく[規範的にどうなっているということになっているか]ということを、すなわち、実在的水準上の〈物事〉ではなく規範的水準上の〈物事〉を、つまり、〈物事〉そのものではなく〈物事〉の意味を、問題とする。そして、実在的水準上の〈物事〉ではなく規範的水準上の〈物事〉に、〈物事〉そのものではなく〈物事〉の意味に、対処する。そのような規範的水準上の〈物事〉は、実在的水準上の〈物事〉とは関係がないこともあり、したがって、そのような場合、規範的水準上の〈物事〉への対処は、現実上は無効である。しかし、それがいかに実在的水準上は無効であっても、その規範的水準上の〈物事〉への対処によってこそ、〈人格主体〉は、免責され、さらには賞賛される。逆に、いかに実在的水準上で有効な業績を実現したとしても、規範的水準上の〈物事〉でなければ、問題とされず、また、規範的水準上の〈物事〉としてその連関に反則していれば、むしろその〈人格主体〉は、叱責される。

 もっとも、もちろん一般には、[実在的水準における統一整合性]は、同時に規範でもあり、[実在的水準における統一整合性]と[規範的水準における統一整合性]とはけっしてつねに対立するものではない。とはいえ、〈人格主体〉が[実在的水準における統一整合性]を追求するのは、あくまで結局それが規範に取り込まれているからにほかならない。つまり、〈人格主体〉は、〈主体行動〉や〈生活世界〉に〈生活意志〉として[規範的水準における統一整合性]こそを実現しようとする。

 ボードリヤールなどにおいて、記号的消費が問題とされるが、しかし、それは、消費に限らず、生産についてもそうであり、そもそもある行為が生産であったり消費であったりするという発想そのものが記号的ないし規範的なものである。

 ここから理解されるように、[人間的生活主体は、規範的水準における統一整合的生活を構成する]ということ、つまり、[人間が規範的動物である]ということは、[人間は[対処が実在的に有効/無効である]ということよりも、[自分が規範的に賞賛/叱責される]ということを問題とする]ということである。アリストテレースの言うように、人間は集団的動物であり、生活において集団の他者のさまざまな助力を要請しなければならず、その社会依存的傾向は、近代になるにしたがってより深まっている。それがゆえに、[他者が自分をどのように評価し待遇するか]は、つまり、[自分がどういう意味、すなわち、〈身分〉を持つことになるか]は、実際は、自分にとって最も直接的に有効な問題である。

 〈人格主体〉の意味、すなわち、一般類型的連鎖性、つまり、規範的水準上の位置を、〈身分〉と言う。

 けれども〈身分〉としての他者の評価や待遇を問題とするには、そもそもすくなくとも[規範的水準において評価される]という待遇の〈身分〉を他者から付与されなければならない。そして、この人間としての基底的待遇こそが、〈人格主体〉という〈身分〉である。我々が〈様相協証規範〉として[規範を負課することになっているもの]、すなわち、[〈規範主体〉とすることになっているもの]は、実在的水準における〈人格主体〉そのものである。

 しかし、規範を問題とするものそのものは、[その実在的水準における〈人格主体〉、すなわち、その〈人格主体〉の〈身体〉]ではなく、[[その〈人格主体〉の個性]であり、[〈生活意志〉としての統一整合性の連続同一的な原則]である〈私我〉]である。〈人格主体〉の身分評価体系は、〈精神〉として集団に共有されており、他者を評価待遇する場合にはもちろん、自分がなにかをする場合にも、[自分がその行動によってどのように規範的水準に位置づけられ、待遇されることになるか]ということが先駆的に考慮されることになる。このために、人間は、現実的にはもちろん、内面的にもこの規範的水準に生活することになる。けれども、規範的水準において、現実的に規範が負課されるのは、その〈人格主体〉そのものであるのに対して、実在的水準において、内面的に規範を問題とするのは、その〈人格主体〉の〈生活意志〉の〈私我〉である。ここには、微妙なずれがある。すなわち、規範を負課されていても〈私我〉が内面的に問題としないこともあり、また、規範が負課されていなくても〈私我〉が内面的に問題とすることがある。

 ここで言う「内面」とは、物理的な内側ではなく、〈生活意志〉という〈主体行動〉や〈生活世界〉に統一整合性を実現する機制において、ということである。それは、後述する〈意図〉を随伴する実在的水準の〈主体行動〉によって実在的水準の〈主体行動〉や〈生活世界〉を改変するがゆえに、むしろ実在的水準の〈事〉である。一方、「現実」とは、規範的水準における協証的な現実脈絡において、ということである。それは、むしろ実在の当事性を欠いた物語的なものである。

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