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ハヌマーンの比類なきバクティについて、サティヤ・サイババの講話

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この世のすべてのものには価値がありますが、話された言葉の価値は簡単には測れません。人間は自分の言葉によってあらゆる種類の富を得ることができます。支配者はその言葉によって王国を失います。言葉によって、人は友人や関係を得ることができます。言葉によって、人は敵を作り、憎しみを生み、自分自身を惨めにすることができます。良い言葉は、人にとって最高の親戚です。それだけではありません。自分の言葉が、多くの面で人の進歩に貢献するのです。人の言葉は、その人の繁栄、勇気、至福、あるいは死の根本原因となります。自分の言葉が人生のほとんどすべてを決定するのです。 したがって、自分の言葉は、甘く、健全で、他人に喜ばれるものでなければなりません。

"Anudvegakaram Vakyam Satyam Hitam Preetikaram"
(人のスピーチは興奮を引き起こすべきではない。真実であり、喜ばせるものであり、善意のものでなければならない)

真実であっても、厳しい言葉で語るべきではありません。柔らかく、甘く、心地よく、平和をもたらすものでなければなりません。

ハヌマーンは、そのような言葉遣いの最高の模範でした。 ハヌマーンは勇敢なヒーローで、甘く説得力のある言葉で、シュリ・ラーマとスグリーヴァの間に友情をもたらしました。彼は穏やかで、勇敢で、高潔でした。彼はサンスクリット語の偉大な学者であり、多くの言語に精通していました。彼はパイサーチ語(悪霊の言葉)にも精通していました。サンスクリット語はすべての言語の母であり、古代には神々の言語として尊重されていました。

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今日の世界には、神の名前を唱える何百万人もの人々がいます。しかし、名前を唱えている間、彼らは神の名前の偉大さと栄光に気づいていません。ハヌマーンが羅刹の国であるランカーに入ったとき、最初に出会った親切な人はヴィビーシャナでした。猿を見たことのないランカーの羅刹たちは、この猿の訪問者について知りたがりました。
「あなたは誰ですか?どこから来て、誰に頼まれたのですか?どのようにしてランカーに入ったのですか?」
ハヌマーンは平然としていました。
「私はコーサラ帝国の神、シュリ・ラーマのしもべです。」と言いましたが、彼はとても強い力を持っていました。このことからも、どんな状況でも人は落ち着いて平静を保つべきです。 この平静さはどのようにして確保するのでしょうか?心が純粋であれば、平静さは保証されます。心が清らかでなければ、平静さは得られません。たとえ平静であるように見えても、それは見せかけに過ぎません。心の純粋さと心の平安の両方があれば、人は何でも達成できます。Pは3つあります。1つ目の「P」は「Pure純粋さ」を表しています。2つ目の「P」は「Patience忍耐」。3つ目の「P」は「Perseverance 根気」を表しています。これらが揃っていれば、人はシュリ・ラーマの恩寵を得ることができます。このことはハヌマーンが十分に証明してくれました。

しかし、ヴィビーシャナは苦悩していました。彼はハヌマーンにこう言いました:「ああ、ハヌマーン。ああ、ハヌマーン!あなたはなんて幸運なんだ!ラーマチャンドラの仲間になるなんて、なんという功徳なんだ!私にはそのような幸運はありません。私は何年もラーマの名前を瞑想してきました。しかし、これまでのところ、私はラーマのダルシャン(神の拝謁)を得ていません。あなたは主と一緒にいることを楽しんでいるだけでなく、ラーマの命令を実行する特権を持っています。どうすればそのような祝福を得ることができるのか、教えてください」

ハヌマーンは答えました。「ヴィビーシャナ!」。ただラーマの名前を唱えるだけでは不十分です。ラーマの命令を実行し、ラーマへの奉仕に従事しなければなりません。そうしてこそ、あなたは自分の中にあるラーマの力を経験することができるのです」。その瞬間から、ヴィビーシャナはラーマの奉仕活動に参加することを決意しました。

奉仕のないナーマ・ジャパは役に立ちません。
カリ・ユガの今日、ラーマの名前を唱える人は何人もいます。ナーマ・ジャパ(名前を唱えること)だけでは十分ではありません。どんな神の名前を唱えるにしても、その名前に関連した形の奉仕にも積極的に参加しなければなりません。ラーマ・カーリヤ(ラーマへの奉仕)という言葉には何が込められているのでしょうか?ラーマは宇宙全体に内在しています。ラーマはどこにでも存在しています。それゆえ、社会奉仕に参加しなければなりません。仲間に奉仕し、無力な人を助け、献身的な奉仕の神聖な行為を行うことで、人はシュリ ラーマの恩寵を受ける資格を得るのです。

ハヌマーンは非常に頭が良かったのですが、神に関わることでは善と悪の区別をしませんでした。命令されたことは何でも暗黙のうちに実行しました。それが正しいのか間違っているのかを問うこともしませんでした。なぜでしょうか?それは、ラーマが言ったことをヴェーダ・ヴァーキヤ(福音の真実)とみなしていたからです。神の言葉は疑問の余地がありません。ハヌマーンは、自分には「神の言葉」を判断する能力がないと感じていました。
"私の義務はラーマの言うことを何でも実行することです"
"Kartavyam Yogam Uchyate"(義務はヨガ)
とギーターは言います。このヨーガとは何か?
"Yogah Karmasu Kaushalam "とギーターは言います。ヨーガとは、義務の遂行における卓越性です。したがって、あなたは神の命令に従ってすべての行動に着手しなければなりません。そうすれば、あらゆる種類の知識を経験することができます。

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ハヌマーンは、常にラーマのことを考えていました。体中の毛がラーマの名を唱えていました。ハヌマーンは、主への完全な献身の例として信者に崇められています。ハヌマーンが海を飛び越えてランカーのシーターを探すことができるかどうか疑問を持つ人がいたとき、ハヌマーンは、ラーマが彼に任務を与えたのだから、それを達成するための力も与えてくれるだろうと言いました。この絶対的な信仰が、ハヌマーンの成功の要因となったのです。人は、神から与えられた仕事を遂行する能力があるかどうか疑念を抱くと、弱くて無力になってしまいます。何かを成し遂げるためには、確固たる信念が必要です。疑念を払拭しなければなりせん。起こることはすべて自分のためになると受け止めなければならないのです。それが神の恩寵を受ける資格を得るための手段です。スワミの言葉を推測し続けることは、非常識な行為です。 ハヌマーンは疑いから完全に自由であることを例示しました。

ハヌマーンには2つの願望しかありませんでした。ラーマと親しくなること、そしてラーマの近くにいることです。ハヌマーンは、いつもラーマのそばにいたいと強く願っていました。どんなに高価なものでも、ラーマの名を掲げていないものは使えませんでした。シーターから贈られた真珠の首飾りを捨てたのも、真珠がラーマの名を唱えていなかったからです。

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ラーマは宣言しました。
「ハヌマーン!あなたにプレゼントするのにふさわしい物質的なものはありません。あなたは精神の世界に住んでいます。この世のものに執着することはないのです。私の栄光が歌われるところには、どこにでもいてください」
ハヌマーンは、ラーマへの献身に酔いしれ、常にラーマの名を唱えて恍惚の境地に達していました。ラーマの前では謙虚さを忘れませんでした。ラーヴァナの前では全く恐れを知りませんでした。神の前では祈祷者でした。ラクシャサの前では英雄でした。ハヌマーンはどのような状況下でも自分の行動の仕方を知っていました。彼は最高に知的でした。彼は人類の理想として際立っています。


ラーマの言葉でハヌマーンは非常に有能になりました 。ハヌマーンは、どんな障害があっても決して動じず、自分の任務の結果に満足してから報告しました。ハヌマーンはラーマの命令を掘り下げて、その意味を知ることができたのです。ハヌマーンはラーマの命令を受けた途端、自分の中に力がみなぎってくるのを感じ、これほどまでに命令されたのだから、必要な力や知性、勇気や冒険心はラーマ自身が与えてくれるのだという新たな自信を得ました。そのため、彼は自分の能力に不安を感じることはありませんでした。

ラーマが彼に何かをするように依頼したという事実だけで、彼の肉体と精神は活性化しました。電線にはプラスチックの中に銅線が入っていますが、良い動作をするためにはどちらも高品質でなければなりません。それと同じように、肉体と精神の両方が良い状態でなければならず、ラーマの言葉はそれらを効率的かつ活発にしました。 ラーマのダルシャン(視覚)は、ハヌマーンに巨大な力、それも肉体的な力を与えました。そうでなければ、ジャーンバヴァーンやアンガダ、その他のヴァナラの英雄たちでさえ敢えてやらないような、百マイルの海を飛び越えることなどできたはずがないのですが、彼はただラーマの名を唱えるだけでそれを成し遂げたのです。


ハヌマーンの人生の重要な特徴があります。
インドの若者は、ハヌマーンの人生の特徴に特別な注意を払わなければなりません。
「私は成功するだろうか?」や、
「なぜ、よりによって私がこの使命に選ばれたのか?」と、彼は損得の勘定をすることはありませんでした。
ラーマからシーターの居場所を探ってくれと頼まれたとき、ハヌマーンはこう言いました。
「なぜ成功か失敗かを考えなければならないのか。」とハヌマーンは自分に言い聞かせました。
「私を選んだラーマがその責任を負うのだから。」と、ハヌマーンは祈りながら最善を尽くすことにしました。
飛んでいる途中、海から丘が上がってきて、休息ともてなしを申し出ましたが、彼はその申し出を拒否しました。また、海から魔女が現れ、先に進む前に戦わないかと誘ってきましたが、彼はそれを振り切って飛んで行きました。ハヌマーンはラーマの矢のように空を駆け抜けました。自信が彼の勇気の基礎であり、その上に自己満足の壁を築き、その上に自己犠牲の屋根を作り、彼はその邸宅に住み、自己実現の至福を味わったのです。


ハヌマーンのラーマへの献身を示す素晴らしい例があります。橋が完成し、ランカーへの行進の前夜、ラーマは涼しい明るい月明かりの中、スグリーヴァ、ハヌマーン、ヴィビーシャナ、ジャーンバヴァーン、アンガダ、ナーラ、ニーラなどの人々と一緒に海辺の砂の上に横たわっていました。ラーマはラクシュマナの膝の上に頭を置いて寝ていました。

あるときラーマは突然、「なぜ月には印があるのか、その印は何を示しているのか?」という質問を投げかけました。それぞれが思い切って答えを出しました。ある者は地球の影だと言い、ある者は月の表面に大きなくぼみや亀裂があることを示していると言い、またある者は巨大な土の山に違いないと言いました。ラーマは、長い間黙っていたハヌマーンに、それについてどう思うか尋ねました。ハヌマーンは、それは自分が愛してやまないラーマの顔が月に映っているのだと言いました。ハヌマーンは、目を向けたものすべてにラーマを思い浮かべるという比類なき幸運に恵まれていた。

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ハヌマーンはすべての女性を自分の母親とみなしていたました。ハヌマーンには欲がありません。彼の怒りは「足りない」という種類のものではなかった。彼女を探すために、ハヌマーンはラーヴァナ宮殿の女性の居室に入り、眠っている女性の顔を覗き込んで、ラーマが語ったシーターの特徴と比較しなければなりませんでした。ハヌマーンは、このような試練を受けることに非常に罪悪感を感じ、自害を考えたこともありました。なぜなら、このような経験をした後では、ラーマに顔を見せるのが恥ずかしいからです。しかし、結局はラーマの命令に従っているのだと自分を慰め、捜索を続けるために戻ってきました。彼はすべての女性を自分の母親と考え、シーターではなく自分の母親がいる場所を探したのです。これは現代の若者にとって良い教訓となります。


ラーマの戴冠式の後、シーター、ラーマ、兄弟たちは一緒に座って過去の出来事を懐かしんでいましたが、中にはラーマに仕えるためにもっと多くの恩寵を得たいと言う者もいました。バーラタとシャトルグナが一番熱心でした。そこで、ラーマに捧げることのできるすべての奉仕項目のリストが作成し、その場にいた人たちにその奉仕が割り当てられました。

ハヌマーンはその時はいなかったのですが、彼が入ってくると、他の人たちはある種の喜びをもって、彼にはもうラーマに仕える機会はない、すべては他の人がやることになる、と発表しました。ラーマもそれに参加しました。 ハヌマーンはひどく落胆し、彼らに嘆願しました。
「お願いです。どうかもう一度リストを見直してください。どんなに小さな奉仕でも、見落とされていたものがあれば教えてください。」
人々は見落としがないことを確信していたので、リストをハヌマーン自身に渡したところ、運良く1つだけ割り当てられていない項目を発見したのです。あくびをするときには、口の前で指を鳴らす儀式があります。もちろん、あくびをする人が自分でするのが普通ですが、アヨーディヤの皇帝ラーマの場合、自分ですると品格にかかわることになります。 ハヌマーンは、ラーマがあくびをするたびに指を鳴らす役目を与えられないかと訴えました。他の人たちは、ラーマがあくびをすることなど滅多にないだろうと考え、賛成しました。しかし、ハヌマーンにとっては神のご加護でありました。ハヌマーンはいつもラーマの顔を見て、指を準備して、自分の義務である儀式を行う機会を待っていたのです。 ラーマの知識と計画なしに何が起こるというのでしょうか!これもまた、ラーマの恩寵です。誰が信者を神の前から遠ざけることができるでしょうか?ラーマはこの出来事によって、誰も彼の願いを妨げたり、彼の帰依者と彼自身の間に立ったりすることはできないことを示しました。

参考( 抜粋 ) : 
https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume13/sss13-28.pdf

https://sathyasaiwithstudents.blogspot.com/2020/10/the-story-of-silver-hanuman-idol-in.html?m=1

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