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お遍路ウォーキング日記(83:三十七番岩本寺へ)

【2024年3月27日(水曜日) Day 83】


 今日は漸く札所三十六番青龍しょうりゅう寺を打つことができた。現在地は宇佐大橋の宇佐側で、この場所から左に進めば浦ノ内湾が左手に見える。

 お寺を打ったのに気づいたのが少し遅かったので数千歩足踏み状態になってしまった。(このアプリ「お遍路ウォーキング」はお寺を打ったのにそのままチェックせずに放置すると日付が変わるまでその場所に居続ける)

 三十六番青龍寺について簡単に書こうと思う。もともと青龍寺というのは弘法が真言密教の礎を学んだ長安の青龍寺から来た名前だという。

 唐に渡った弘法はそこでの学びへの恩に報いるべく独鈷とっこという密教の仏具を東の方角に向けて投げたという。帰朝したのち弘法はこの横浪半島の近くで強い気を感じ、唐から投げた独鈷が木に刺さっていたのを見つけ、その場所に寺を建立し自らが学んだ長安の寺の名前をつけたと言われている。言い伝えではそう云う話だ。この手の話には突っ込みは禁物。

 なので寺号は青龍寺、山号は独鈷とっこう山なのだと言われている。またこの寺の本尊は波切不動明王である。波を切るくらいで航海の守りとして崇められるが、弘法が唐へ渡るときに無事に渡れるようにと不動明王が現れたという言い伝えがあり、弘法もはるか遠い唐の青龍寺に思いをはせて本尊を作られたのだと言われている。因みにここのご本尊は石像だとのこと。

 このお寺の特徴はなんと言っても気が遠くなるような長い石段だ。見上げてため息も出そうなほどではあるが木々が茂っていることもあって気持ちよく上ることができる。

 この石段は近くにある明徳義塾の運動部の生徒たちがトレーニングで使うらしい。かつて特に毎日熱心にトレーニングを重ねていた相撲部の生徒が後に大相撲で出世して横綱にまでなった。その力士は若き頃に身体を鍛えた寺の名前を四股名に付けたという。それは朝青龍だ。

 ところがお寺側はそのような美談はいっさい我関せずでひと言もこの話や朝青龍との関わりについては語らない。もしかしたら言い伝えなだけかも知れないし、その後の関取の所作などから関わりはないと言いたいのかも知れないしすべては謎が多い。

 ただこのお寺から明徳義塾はすぐ近くなこと、朝青龍はモンゴルから明徳義塾に留学し相撲を学び、力士になったという話は本当のことだ。

 次の札所はかなり遠く、まずは須崎を目指して進み、須崎からは久礼くれ七子ななこ峠を越えると土讃線の駅がある影野、六反地ろくたんじ仁井田にいだと高台の田園地帯を通過する。仁井田の先に次の札所のある窪川(現在は四万十町)へと入る。まだまだ先は長い。まずは須崎だ■

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