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感情や感覚をカテゴリ分けしたり定義付けたり、あるいはしなかったりすること/昔摂取した物語を追い出すために

はじめに

性について書くために始めたnoteではないが、カウンセラーに性についてぼんやり話したところ私は今「自分は何者なのか」という問題にぶち当たっている状態だ(確かにそれはそう)と言われたため、諸々整理するためにとりあえず書くことにした。自分の性をどう捉えて生活していくにしても、人生を進めていく上で重要なことではあるはずなので。

※ヘッダーは白髪一雄「観音補陀洛浄土」(1972年、アーティゾン美術館)部分

こころの性と表現したい性、恋愛志向、性的指向

基本的に思っていることとしては、「性」という概念に行動を規定されたくないということである。私は生物学上は女性だが、自分が女性として眼差されることに違和感または嫌悪感を感じる(性的な意味でもそうだし、社会的立場の話でもある)。また、自分の体に女性的な特徴が強いことに少しの嫌悪感を持っている。一方で、体を男性のものに変えたいという欲求や、男性的な振る舞いをしたいという欲求は全くもってない。中性的な服装を選ぶことが多いが、時には女性的な格好をする時もある。列挙したが、一貫しているのは、私は人間だが、女性としても男性としてもありたくない、という気持ちである。ノンバイナリー的なあり方と言えるだろうか。

恋愛志向は、診断によるとどうやらアロマンティックらしい。これにはとても思い当たる節がある。元恋人から「冷淡」等々言われたことはアロマンティックでない方とのすれ違いの典型的なやつだったと思うようにしていきたい(註1)。「(これって)好き(なのかも)」という気持ちが長続きしなかったり、「これは『好き』なんだろうか」と自問自答することも、これからはやめようと思う。

さらに性的指向を見ると、どうやらアセクシュアルでもあるらしいので、他人に対して性的欲求が向く感覚が分からないことも肯定していきたい。「他人に持つ感情が恋愛感情なのかを判断する基準は『相手に触れたいと思うかどうか』です!」という言説を受けてふむふむそうなのかと思って実践してみても、誰に対してもそう思うことはないので困っていた。ただし、こちらに関しては、後述するが、経験に裏付けられていないので少し自信がない部分もある。

自分が女性として対象とされることについて、また恋愛とセックスが普遍的で至上のもののように掲げられる風潮について、なんとなくの違和感は高校生ぐらいからふわっと意識の上に現れたこともあったし、それが結果的に実際の人間関係に影響することもあった。だから、今セクシュアリティ診断等をやってみて以上のような結果が出たことに違和感はまったくない。一方で、ノンバイナリー、アロマンティック、アセクシュアルとしての自分の将来を考える中で、これまでに摂取してきた社会通念が内面化され根強く残っていることを実感する機会がむしろ増えた。それらに対して違和感を持ち、近年は意図的に距離を置いていたはずだったのに。そのようなことについて以下に書いていく。(傾向と対策とか言っているが、自分がどういうマインドを持って生活していけば辛くなさそうか、という程度のものである。)

(註1)言われた当時は割とショックだった。「あなたは恋人はおろか友人もいらないように見える」的なことを言われ、自分の人間関係の築き方と、それによって得られた友人すべてを否定されたように感じた。

社会って怖いね、刷り込まれちゃうんだもん—傾向と対策【1】

どうしても、刷り込まれた恋愛・セックス・結婚の規範や、それらを通して人間の価値を語ることから、完全に逃れることは現状できていない。具体的には、まず以下の二つだろう。

「恋愛を通して相手を思いやることができるようになる」「恋愛は人間を成長させてくれる」という言説や風潮(註2)を意識的無意識的に内面化しているので、「相手に強い気持ちが動かないのは、結局自己愛が強いだけだったり自己中心的なだけなんじゃないのか」というような自己否定が生まれる時がある(①)。あるいは「セックスやスキンシップは人間にとって不可欠なもの」「触れ合いを通して愛は深まる」という言説や風潮(註3)に対して、それらを内面化しているということはないのだが、「それらにしっくりこないのは単純に性的な経験があまり多くはないからなのか?一度味わったら忘れられないような強い快楽(※多少の快楽は分かる)を得たり、触れ合いによって生じる強烈な救い(※触れ合いが力を持つという実感はある)を得たりすれば案外あっさり性的な関係を持つことに抵抗がなくなったりするのでは?」というような不安が現れたりもする(②)。

①に対して現状抵抗するために私が持っている考え方は以下の二つくらい。積極的に発動させていきたい。1)相手を思いやることは恋愛においてだけでなくすべての人間関係に必要とされる要素である。恋愛をしなくたって社会生活を営める程度の社会性があるならいいんじゃないすか。2)恋愛における「思いやり」って、むしろ歪な関係になることも少なくないのでは?(少なくとも私は距離感をバグらせがち(あるいはバグらせられがち)なので、相手を傷つけないためにも自分が傷つかないためにも恋愛から離れます)

②に対しての現状の抵抗策は、性欲や性を上位に置くのもまた一つのイデオロギーなのだよ、と思うことだろうか。ある時、「性欲は日本では三大欲求の一つに数えられているが、マズローの生理的欲求に基づくにしても、なんらかの選択が行われているよね」「その三大欲求という枠組みは、おそらくある時期に社会的文化的に作られたものだよね」(要約がだいぶざっくりだが)という旨の一連のやり取りをTwitter上で見て少し救われた。性欲の社会的な位置付け的なところを学部で研究された方がいるとのことなので、性欲研究が膨らむことを期待したい。ただし、経験が少ないことはまぎれもない事実なので、このようなマインドをもってしても上に書いたような不安を根本的に消すことはできないのだが。

(註2)一番はっきりと覚えているものでは、中学校で人格者とされていたある先生(実際、きちんと大人な、でも話の分かる、好感の持てる先生だった)がこれとほぼ同じことを言っていたことがある。

(註3)元恋人に言われた。あとTwitterで「三大欲求 性欲」って検索するとたくさん出てくる。

社会って怖いね、刷り込まれちゃうんだもん—傾向と対策【2】

そしてもう一つ逃れられないのが「考えすぎだよ」的なやつである。「性のあり方は身体感覚に基づくべきものであり、本能に忠実になれば本当はやっぱりセックスは楽しくて人生になくてはならないものだし、恋愛は楽しくて人生になくてはならないものなんじゃないか」みたいな観念が抜けない。「自分のあり方は、どの程度身体感覚に忠実なもので、どの程度思想や学習によって形成されたものなのか。後者についてもっと言えば、セクシュアリティについて多少の知識を得た上での『こうありたい』が診断の答えに反映されているだけで、私はやっぱり『シスジェンダーかつヘテロセクシュアルで単に中性的な格好が好きでセックスが好きではない女』なんじゃないか」とか、「身体感覚ではなく思想に多分に影響を受けて形成された自分のあり方は『自然なもの』なのか(自然とは、という感じなのだが)」とか、思ってしまう。これらは詰まるところ、シス・ヘテロを基準にものを考えてしまう癖が抜けないと言うこともできるかもしれない。

これに対しては、100%純粋な身体感覚はありえない、と思うことにしたい。どのように生活している人だって、(意識的にか無意識的にか分からないが)何かしらの学習を経て、何かしらの思想のもとに今の性のあり方に行き着いているはずだろう。今存在する社会通念に馴染めない場合、自ら探らなければいけないから、そうではない場合と比較した時に頭でっかちさを感じてしまうだけなんじゃないか。(この辺りの考え方はある友人の言葉に示唆を受けた。)

おわりに

自分の心の持ちようについては、あとはもう知識で武装していきたい。(現状あまり関連する本や記事等を読めていないので)

それから、ノンバイナリー、アロマンティック、アセクシュアルなどの枠が与えられたことで、私がかなりの安心感を得られたことは確かなのだが、それに常に当てはまるわけではなく流動的なあり方を感じることもしばしばある。それも含めて自分を肯定していくしかないなと思う。

私にとって友人に対して持つ愛情とお気に入りの展覧会図録や愛着のある土地に対して抱く感情は割と近く、またおそらくパートナーになってほしいと思う人が今後現れるとしたら、その人に向ける感情もそれらと同じ濃度のものだと思う。それを一番手っ取り早く表す言葉は「好き」なのだが、それを一般的な「好き」に寄せようとする必要はないということを忘れないようにしたい(一般的な「好き」とは、という感じだが)。



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