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虹になった母

昨日、関東で素晴らしい虹が見られた

虹に出会う度に母を思い出す



 火葬場へ向かうバスの中、助手席で母の遺影を抱く父の背中をぼんやり見ていた。
これで母と本当のお別れだ。涙が次々に流れてくる、父は今何を思っているのだろう

 静かなバスの中、突然後ろで誰かが「虹だ。」と言った。
 すると次々に「虹が出た」「綺麗な虹!」と続いた。
 外を見ると、今まで見たことも無いようなくっきりとした虹が大きく半円を描いて空に浮かんでいた。
厳密に言えば、バスの正面に見える火葬場の辺りから虹が始まって、空へ続いていた。

 その虹を見たとたん、ずっと暗く沈んでいた気持ちが、まるで霧が晴れるように明るくなった。

 最初に心に浮かんだ言葉は不謹慎なようだが「まいった!」だった。

 今思えば「あっぱれ!」や「お見事!」という気持ちがピッタリだと思うけど、あの時はまず「まいった!」だったのだ。


 私が色々な感情を文章で表現し始めたきっかけ、それは山形を出て遠く茨城へ嫁いで来てしまったため、孫の成長も頻繁に見せてあげられないという思いから、私なりの言葉と目線で父と母に伝えられたら…という想いからだった。

 60代という年代にしてはパソコンも上手に扱えた母は、いつも私の発信する文章を気にかけて見てくれた。
更新が滞っていた時期も、毎日覗きに来てくれてたようだ。
 いつしか、孫の成長という内容から、私のこちらでの仕事や生活などもブログに書くようになり、母もそれをとても楽しんでくれて、会うたびに感想を言ってくれ、特に印象に残った記事には感想のメールをくれたりした。私もそれが何とも嬉しくて、日々明るく楽しいネタを探すことが癖になっていた。

 母はいつも「あなたの文章は『オチ』があって面白いんだもの」と言ってくれていた。
私はその期待に応えるべく、頭を絞って書いていた。

 母の闘病期間は約4年だった、その間、誰にも辛さや愚痴を訴えることが一切無く、最後の最後まで私たち家族のことを心配して気をつかってくれるような
優しく、気丈で…父の言葉を借りれば「外連味(けれんみ)」のない母だった。

 いつも側にいて上げられないもどかしさ、後悔を感じながら母を思い続けた4年間だった。

 母が喜んでくれれば良かった、母の気持ちが明るくなり、生きていることの楽しさを感じていて欲しかった。私のブログはそう思って書き続けてきたブログといえるのかもしれない。

 父や母のために書き始めたブログが、母の発病をきっかけに、母を楽しませたいという思いに変わっていた。そうして、くだらないような内容が多かったけど、母のために書き続けていたら、いつしかコメントを下さる方が現れ、影ながらブログを見守ってくれている友人も連絡をくれたりした。その喜びが、また書き続ける原動力になっていた。
 
 
 病院で母が息を引き取り、その晩、亡骸を実家へ連れて帰るとき、外ではまさに私たち家族の心の痛みを表すような吹雪が吹き荒れていた。
 コンパクトカーの助手席に、すっかり憔悴している姉を乗せ、両手に汗を握りながら視界の悪い道路を前屈みになって運転して帰った。
 そのまま雪は降り続けた。
 訃報を聞き、駆けつけようとしてくれた親戚達の足を滞らせていた。

 出棺の朝は、一晩続いた吹雪がうそのように晴れ渡っていた。

 喪失感とずっしり重いような疲れと、大きな悲しみのまっただ中で、母の亡骸を火葬しに向かう途中

奇跡が起きたのだ。

 そのくっきりと浮かぶ虹を見たとたん、母の声が聞こえてくるようだった。

「みんな、ほら顔上げで、お母さんはもう大丈夫ださげの」(庄内弁で、大丈夫だからね)
 
 最後の最後、最高の『オチ』としてこれ以上ないってくらい、スケールの大きい演出をやってのけた母が、虹の上で得意そうな顔で笑っている姿が見えたようで思わず……「まいった!」そう思ってしまったのだ。

 辛い年越しの後、新年を迎えた。
 茨城に戻り、仕事も再会した今でも、ふと思いだして辛くなる、父のことや姉のことを思うと今すぐ山形に帰りたくなる。
しかし、全て理解して長期間家を空けることを了解してくれた夫や、元気に幼稚園に通う子供達のため、それぞれの一歩を踏み出すより仕方ない。

 子供達は、テレビや雑誌で虹を見かけるたびに「あっ!おばあちゃんだ!!」と言う。
 これからもずっと、虹を見かけるたびに明るく、優しい気持ちになれるはずだ。ありがとね、お母さん。

 母はこのブログをどこかで見てくれるだろうか、もしかして、外に虹が出ていないかな?
確かめてこなくちゃ。

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