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NO means NO

※性暴力についての話ではないので、大丈夫。そういうんじゃないから。

先日、北新地のはずれでクローズドな日本酒の集まりがあった。
最近あまり体調の芳しくないわたしは、ひと様に迷惑をかけたり、はたまた電車を止めるわけにもいかず(おゲロちゃんとか、そういうやつね)
万一の時は会場の近くで泊って帰ろうと思っていたくらいだった。
でも23時には会はお開きになり、そこまで酔っぱらっていたわけでもなく十分に電車で、そして自分の足で歩いて帰れる。時間的には深酒というわけでもない。
楽しかったのに・・・・
最寄りの駅で、同行者の言動と行動に心の底から絶望することになるなんて。
「もう一軒行こう」「帰るとか言わないよね」

無論わたしは「体調が悪いから帰る」
即ち、NOと答える。
その言葉に返ってきたのが「なんで?」
「体調が悪いから帰りたい」の理由に「体調が悪いから帰りたい」以外の何があるのか。
正直恐怖だった。
NO means NOっつってんだろーが。
体力・気力とも限界。
逃げるように電車に乗りこんだ。
この人に対してこの様な心持ちになったのは実は初めてではない。
帰ってとにかく横になりたい。次の日の午前中から予定を入れた自分を恨み。泣きながら帰った。
引くぐらいの号泣。

他人の欲望から解放されて固有の存在を生きていけるようになる

こないだボスが言ってた。
後には精神分析家である片岡一竹氏の言葉が続く。

わたしが「生きるの向いてないな」って思う原因は、結局は自分以外の世界のなかで生きざるを得ないから。
そんなの相容れない事しかないのはわかりきっている。
けど社会を生きるには他人に合わすことも必要だし、生きてくには仕方ないこともある。それしかない場合もある。
自分じゃないものがすべからく「他人」だとすれば、その中でどうやって自分自身を取り戻していけばいいの。

そもそも人が人生に苦しむのはなぜなのでしょうか。
もろもろの苦しみは結局、人がみな【他者】の世界の中で生きなければならないということに起因します。
こうした行き詰まりから抜け出すためには、道はひとつしかありません。
それは【他者】の中の「至福」に依拠しないような自分固有の「幸せ」を見つけ出すことです。
それこそ「特異性」という言葉が表すものです。【特異的な幸福】と一般的な意味での幸せとは異なります。それは【他者】が何を言おうと関係のないものです。他人の理解が得られなくとも、「なぜそんなものを求めるのか」と呆れられ、馬鹿にされても、それでも自分にとっての価値が失われないような、そういったものこそ、【特異な幸福】に他なりません。
それは言ってみれば、誰が何と言おうと、自分の生き方をそのまま肯定するような態度です。たとえ自分が理想的でなくても、万人の理解を得られなくても、自分は自分の望む生き方をしているからこそこれで良いという、堂々とした態度です。

https://x.com/take_one1994

昔はNOが言えなかったのにね

年齢を重ねるごとに不自由なことも増える。
腰は痛いし、遠近両用メガネのデビューもした。
「あーほら、アレだよ、アレ!」も増えるし、寝るのすら疲れる。
もう、なんていうか・・・・
でも、仕事でもプライベートでも「NO」が言えるようになった。
それは自分の意志を貫ける事でもある。
その一点は、わたしを自由にしてくれたと思う。

先日のことに憤り、しかし辛うじてNOと言えるようになったわたしに優しい人が言ってくれた。
「年齢を重ねることは悪いことではないよ」
ほんとに、なんであんなに意味もなく、意味のない人相手に気を遣って疲弊していたんだろうね。
そろそろ、自分の生き方を肯定する勝負に出る頃かもしれないな。


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