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深読み:夏目漱石の『道草』

夏目漱石の『道草』を読みたいという人が身近にいたので、自分の本棚をみてみたのですが、文庫本が見つからずアマゾンで新たに購入しました。
どんなストーリーだったか思い出しているうちに、いろんなことを考えてしまいました。
夏目漱石の小説は、人生で悲哀を色々経験しないとわからないかもしれません。少なくとも高校時代の自分にはわかりませんでした。しかし、「こころ」を社会人として遠隔地で一人暮らししていた時に読んでみると面白かったし、海外旅行中に「草枕」を読むととてもリラックスできました。「三四郎」は、典型的な青春小説といえばそうだけど、登場人物がそれぞれに個性があって面白いです。漱石はここの登場人物に何かを投影しているように思うのです。

『道草』の「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」は有名なくだりです。夏目漱石の小説『道草』は、晩年に書かれた名作であり、漱石自身の苦しい生活をモデルにした自伝的作品でもあります。概して、「1. 主人公「健三」に降りかかるお金の苦労」と「2. うまくいかない夫婦関係」が鋭い洞察力により描かれています。西洋の純文学のように劇的な展開や運命的な出会い、情熱的な恋愛というものはまったくなく、「何も起こらない」と感じる人もいるかもしれません。しかし、地味に苦しいのです。
登場人物は、運命に抗えず、自由に振る舞えません。もしかすれば、漱石自身も、もっと自由に振る舞いたいっていう欲望があったのでしょうけど、自分が引きずってる過去、因果応報やカルマというのでしょうか、それをここで一気にぶちまけてしまおうという気持ちがあって、登場人物に投影させて物語を描いたのかもしれません。生まれてからこのかた、運命に振り回されながらも、なんとか今の形に落ち着いた漱石は、かつての描いた自分の理想の姿といまの現実の姿や人間関係、また老いや衰えも感じることで、自分の人生を振り返りつつ、未来からの視点も持ち込んだとも言えます。
「道草」や「明暗」では、自分を曝け出すかのように泥臭く私小説を書いていた漱石ですが、その合間に趣味のようなこともしていました。絵を描いたり、書を書いてみたり、青年時代漢文の素養をたくさん蓄えていたことから、漢詩も書いていたりしていたようです。芸術レベルとしてはこちらの方が高いと評価されたりもします。
漱石の思想の核として、「自己本位」と「則天去私」があります。
「自己本位」の一般的な意味としては、判断や行動の基準を自己に置く。他人に動かされず、自ら動く。漱石のいう「自己本位」も、ほぼ同じ意味と考えられます。喜悦や悲哀に左右されないというのは、インドのヒンドゥ教の経典「ヨーガ・スートラ」や「バガヴァッド・ギーター」でも高次の心(マインド)のあり方として重要視されています。
一方、晩年の漱石は、「則天去私」、つまり天に則ってわたくしを去るっていうのが自分の感じ方の理想だということを、弟子たちの集まりのときに伝えたそうです。最晩年における漱石の心境あるいは覚悟のようなものとして伝えられてきた言葉です。これは「自己本位」とは逆に、自分を(「天」のような大きなものに比べて)小さいものと考え、「私が」「俺が」という自我(自意識)を、あるいは利に聡く探偵的になりがちな思考する自我を、離れることです。自分の感情や欲望などにこだわらず、そこからいったん距離を置いて、そして自分を含めた世界をより冷静に客観的に眺める姿勢とも言えます。これは、もしかすれば、仏教やヒンドゥ教の梵我一如や三昧(サマーディ)に近いものかもしれません。
三島由紀夫が、『豊饒の海』で試みたように仏教哲学や形而上学を登場人物に投影させることは、夏目漱石の小説ではみられないように思いました。三島の小説では、常軌を逸していると思える登場人物の言動が目立つのですが、夏目漱石では、一般の僕たちでも「こういう人いるよなぁ」とおかしくなります。小説が書かれた当時じゃなくとも、現代でも、未来でも、人間がいる限りは夏目漱石に出てくる登場人物は身近に存在し続ける思います。「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と思いながらも、もしかすればうまく片付くのではと楽観的にも考えます。答えを示すタイプの小説ではありませんが、考えすぎても仕方がないのかなと独特のユーモアが行間に詰め込まれているのですね。漱石の小説は、そういう意味でも、普遍的(いつの時代にも、どんな人にでも)な人間関係を描いているのかもしれません。

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