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深読み:ダルシャン

ダルシャン(謁見、神の眼差し)というのは、本当に貴重な体験だと思います。

ダルシャンの体験については、すでに体験した人から伺うことが多かったです。しかし、失礼ながら「みなさん大袈裟だなぁ」と穿った見方をしていました。ところが、自分が実際体験してみると、他者の体験談は大袈裟ではないことがわかりました。

人それぞれ感じ方や表現の仕方は違えど、もし自分が例えるなら、「初めてのお遣い」でした。よくテレビ番組でもあるように、小さい子どもが親に言われて、初めて独りでのお使いに出さされて、初体験のことばかりで思うようにいかず、買いたいものも買えず、泣きそうになる。でも、店員さんに助けられて買えたりして、助けられながらなんとか目的は達成できて、やっと家に着く。しかし、言われたもの全部は買えてないことに気がつく。でもその姿を、温かく親が玄関で迎えてくれる。なんかよくわからないけど、ほっとした気持ちと、不甲斐ない気持ちで、泣き出してしまう気持ちに似ています。

グルの眼差しは、神の眼差しでもあり、時には親の眼差しでもあるのかもしれません。しかし、大人になってしまうと、子どもじゃないので、なかなか自分は子どもの立場にはならせてもらえません。

グルはいつまでも親のような存在でもあるのです。親であり、神であり、全てを受け入れてくれる存在です。

自分の悪戦苦闘を全て見られていたような気持ちになります。

実際自分もいざダルシャンを対面で受ける直前に、何か込み上げてくるものがあって、それを抑えるのがやっとでした。あれは一体なんなのか、今でもよくわかりません。自分の前の順番の人が、大泣きしているのを見ました。

「人はなぜか自分の人生に対してはプライドを持っている。それ以外のことなら、素直に専門家に意見を聞くのに、自分の人生については専門家に聞こうとしない」

会場でこのように解説している方がおられました。この言葉が刺さりました。自分のことも自分で考えて、解決できないのは、情けないことだと思っていたことがあったからです。「自分のことは自分が一番よく知っているはずなのに、他人に何がわかるのか?」そう思っていたからです。

「自分の人生を棚上げにするべからず」まともな哲学者ならそう言うかもしれません。

しかし、以前考えていた「自分を棚上げする」とは?今思う「Total Surrender(完全な平伏)」とは?

自分が、今は昔とは違う考え方、感じ方をしていることに気が付かさせられました。

これは歳を取ったせいなのか、突き詰めて考えることを諦めてしまったのか、理性の怠慢なのか。実際にはそれもあると思います。

しかし、そういったものを圧倒する何かが存在することも認められるようになってきました。

何か理解できない話や物事を他人から聞いて、否定的な言葉を発してしまう。そういうことって日常でもあると思います。

怖いんだと思います。理解できない物事があったらどうしよう。そんなもの自分は体験する必要はない。自分を何かに預けてしまって、その何かが間違ったものだったらどうしよう。これは人間の自然な心理的防衛反応と思います。

それでも、何かの縁があって、またそれと出会ってしまう。また考えさせられてしまう。もしそうなら、もうそれは一歩進んだほうがいいと思います。

一歩進むというのは、必ずしも日常を壊すことではないように思います。日常に居ながらにして、何か善いと思うことを取り入れるだけでも、大きな変化と思います。人によっては、日常が壊されて180度生活が変わる人もいるかもしれませんが、それは今までの日常がそれ以上必要ないからなのかもしれません。でも、特にそういうことが起きなければ、今までの日常を続けながら、取り入れていくこともできる気がします。小さな変化が大きな変化になるでしょう。



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