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太陽神のような人

今、同じ宿舎に、太陽神のような人がいる。

太陽のような人
ではなく、
太陽神のような人だ。

太陽も太陽神も同じなのだけど、
ただ明るいとか元気という感じではなくて
その身の中に神様を感じられる人。



彼女はとても純粋で、美しく、
そしてあたたかい。

言葉や行動から純粋性を感じられるから
思考が純粋なのだと思う。

人によって何を美しいと感じるかは違うけれど
これまた言葉や行動が美しい。
だからその存在自体が美しく見える。
きっと思考が美しいのだ。


頭に浮かんだことが、言葉として外側に発されるまでに時間がかかる時がある。
その時、言葉自ら大事そうに出てくるのを待つ時間が私は好きだ。

言葉がうまく出てこない時はよく途中で諦めている。笑
それでも言葉にしないままこちらに伝わってくる瞬間、私は悦びを感じる。

完璧ではない余白が、私にはさらに美しく見えるのだ。



レイキヒーラーでもある彼女は
度々私たちにレイキをあててくれる。

その手の温かさを感じた時
一人が「太陽みたいだね」と言った。
その時から私には、彼女の顔も太陽神のように見えてきた。


一昨日、たぶんレイキをあててもらって5回目程か、私はこれまでにないすごい体験をした。
このことはまた後日書こうと思う。



太陽のように温かい、なんなら熱いレベルの手を持って私たちをあたため、整えてくれる彼女は
手だけでなく、やはり言葉や行動があたたかい。

いや、存在自体があたたかい。

人は皆存在自体があたたかいものだけれど
彼女は人の数倍はあたたかいように感じる。



私は晴れの日が好きだ。
ヨガを初めて、雨の日も極端に嫌うことはなくなったし、雨の日の良さも知った。
それでもやはり、太陽がその姿を見せてくれている、晴れの日が好きだ。


一緒の空間に彼女がいると、なんとなく嬉しいような気持ちになっている。
太陽と同じだ。
太陽の光を受けて光合成する植物のように、その恵みに悦ぶ生き物たちのように、神の存在を感じたいと神社へ行く人のように、太陽という神への、自然と湧き出る、感謝や憧れのようなものかもしれない。

きっと彼女の周りの人は皆そうなのではないかと思う。

彼女がそこにいなくても、それはそれでもちろん平気なのだけど。

いないより、いてくれた方がいい。
いてくれたらその時間が数倍悦ばしく感じられる気がするし、その空間が数倍美しく感じられ、世界が数倍色鮮やかに見えるような感覚がするのだ。



なんだかめちゃめちゃ褒め称えてしまっているけど、私は本気で彼女の中に太陽神がいるように感じている。
だから、日々太陽に感謝するように、太陽神への感謝状を書いているのかもしれない。



太陽はいつもその身を燃やし続け、地球を照らし、あたため、大気や水、気流や海流を生み出し、光によって植物を育むことで、私たちすべての命の循環の基になってくれている。

この世界に彩りと美しさも与えてくれている。

誰かに言われたからでもなく、誰かのためにと恩を着せるわけでもなく、その身もいつか滅びる時が来るのにそれに怯えることもなく、損得勘定一切なく、ただその役割の真理に沿って使命を全うしている。


私たちはどうだろうか?

評価をあげるためにしていることや、周りの反応を気にして発言しないこと、失敗すると思うからやめておくこと、良く思われたいからやることなど

“得をする”と思うからすること、
“損をする”と思うからやめておくこと。

“うまくいく”と思うからやること、
“うまくいかない”と思うからやらないこと。

何かをしようとする時には、「その“結果”がどうなるか」を、無意識にやる・やらないの判断にしていないだろうか。



彼女からはそれを感じないのだ。
太陽と同じように、自らの使命をただ全うするように行動しているように見える。

だから、純粋で、美しく、あたたかいのだと思う。





しかしながら、かなりの酒飲みで、毎日お酒を飲む。
お酒を飲むと特に話を途中で諦めがちだ。笑
カタカナはめっぽう弱くなる。
(おもしろ動画がたくさん撮れている笑)


「お酒を飲むために健康でいる」という程の酒好きで、お酒以外が本当に健康的な生活、選択をして生きているように見える。



私はこれまで、神様のような人に出逢ったことはあるけれど、自然や動物と話せたりその人自身がまさにスピリチュアルな存在、という人や、尊敬するヨガの先生だったりで、酒飲みの人に神の存在を感じたことは初めてで、自分でも驚いているのだけど。

お酒好きの人に神を感じたことで、これまで私はお酒に対してある種のジャッジをしていたことに強く気付かされた。

これはお酒がいいとか悪いとか、それこそ今ジャッジする話ではなく。
自分の中にあった謎のジャッジが、彼女に出逢ったことによって崩れ去ったのだ。

崩れたことによって、そこにあったものに気付かされた。


習ったことと、体験するのとでは全く違う。
結論が違うこともあるだろうし、同じだとしても感覚として捉えた時の腹に落ちる感じは全く違う次元の理解になる。


私は彼女にレイキをあててもらい、初めてチャクラの位置を認識した。
頭で覚えていた知識と、体験したものとの、僅かなズレ。

次回はこの体験について書こうと思う。




私はみかんの選果をしに愛媛に来たのではなく、この人に出逢うために来たのだということがわかった。
それこそ腹落ちするように、わかった。

私の場合、“何をするか”よりも、“誰とするか”が重要みたいだ。

今年はぶどう農家にも行ったけれど、私はけして農業がしたいわけではない。

でも、動くと必ずと言っていいほど、素晴らしい出逢いがあるのだ。


今は、私がこの太陽神のような人と出逢った意味を、探している。

何を学ぶようにと神は言っているのか。
何を私に与えてくださっているのか。
何を受け取り、何を手放すように言われているのか。

神が与えてくれたこの出逢いを、大切に、大切に、受け取りたい。

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