「わからなさ」をときめきを持って甘受する
"とても清々しい気持ち悪さでした "
2016年2月1日の朝日新聞のコラムに寄せられていた最初の一文。
ある展覧会を訪れた方の感想の引用です。
わたしは心に残った言葉やらなんやかんやをノートに残しているのですが、
そのノートを読み返しているとこの言葉に出会ったので、
この記事はこれをテーマに書いてみようと思います。
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どうしてこの言葉が印象的だったかというと、
清々しさ と 気持ち悪さ は普通はイコールで結ばれるものではないから。
ここでいう気持ち悪さとは
「なにかよく分からない得体の知れないもの」を指しているのだけれど、
普通はそういうものってあんまり見たくないし、清々しいなんて言えない。
じゃあなぜ、よくわからないものに対して
わたしたちは不快感を抱いてしまいがちなのか?
わたしの考える答えは、
「世の中がわかりやすいもので溢れていて、
かつ無駄なものを排除した完成形が求められているから」。
だって今の社会はスマホひとつあればなんでもできる。
テクノロジーは日々発展し続けていて、様々なものが最適化され、
自分の思い通りにできる幅は圧倒的に広がっている。
「より簡単に」「よりわかりやすく」と簡略化が進むなかで、
「できないこと」「わからないもの」に対しての抵抗感が増しているのではないか、というのがわたしの仮説です。
じゃあそういうわからないもの、面倒くさいものって切り捨てられるべきものなの?
というと、そうではないと個人的には思っています。
「未完の美」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
本当の美は、心の中で未完成なものを完成させようとする者にのみ、発見されるべきものです ー 岡倉天心「THE BOOK OF TEA」より
完全ではないものに対して趣を感じる、
わびさびを見出す精神性は古くから日本にあったもの。
わたしはこの考え方が結構好きです。
最初から完成されたもの(=わかりやすいもの)は
ともすれば人を決まった思考に追いやってしまいます。
不完全さ、わからなさを受け止め、自分なりの解釈を加えていくことは、
確かに最短距離ではないけれど、大事なことなのではないかなと思います。
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冒頭に引用したコラムはこう続きます。
何かよくわからないものは人を不安にするが、妙にわかりやすいもののほうが本当は怪しいのではないか。今の自分には理解困難なものとの出会いこそが視野をぐいと開く。だから、不可解なものを不安がるのではなく、ときめきを持って甘受すること。
わからないものを拒絶するのではなく、そのわからなさごと受け止め、対峙する。
切り捨てるのではなく、関わっていこうとする。
そこから派生する解釈に唯一の正解なんてないし、たぶんどれも正しい。
わかりやすいものばかりに飛びつくのではなく、
そんなわからなさを愛せるようになれれば、
人としての深みが増すのではないでしょうか。
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